『無人島(ぶじんとう)異聞』

(一)

文久二年(一八六二)二月。その頃まで無人島と呼ばれた小笠原群島の父島の海岸を、二人の侍が上半身裸で歩いていく。

波打ちぎわの砂は白く、海水は海底がはっきりと見えるほどに澄みわたり、雲ひとつない青空には、二月と思えない夏のような太陽が輝いている。

前を歩く幕府外国奉行方同心・松浪権之丞がいった。

「いまごろ江戸では火鉢を抱いていても寒かろう。それだけが流人のようなわしらの慰めじゃな」

「ううむ。まるで島流しにあったのと同じじゃが、色だけは黒うなったのう」

答えたのは大目付方同心の林和一郎である。

二人とも上半身裸の腰には大刀を差しておらず、裾をたくし上げた袴に脇差だけを差している。

鳥もかよわぬ流人の八丈島から、さらに南方に遠く離れた小笠原群島は、豊臣秀吉の命によって文禄二年(一五九三)、信濃深志城主の小笠原貞頼によって発見された。

それいらい日本の絵図には、小笠原群島が豆つぶのように描かれるようになったが、住む島民もいない絶海の孤島は、その後は「無人島」とよばれて誰からもかえり見られなかった。

だが日本を大騒乱に陥らせたペリーの黒船が、日本を開国させてまもなく、イギリスで出版された万国地図に、小笠原群島がイギリス領と記されていることを知った幕府が領土問題に目覚め、外国奉行を咸臨丸で派遣して、小笠原群島の占有権を主張したのである。

いま海岸を歩く二人は、咸臨丸に乗って小笠原父島に上陸し、そのまま幕府の下命で住みついたのであった。

「大目付方のおぬしが取り締まるのは罪人のはずじゃが、この無人島には日本人はひとりも住んでおらぬ」

権之丞が日焼けした顔で和一郎にいった。

「まったくじゃ。住んでおるのは夷人ばかりで言葉がまるでわからぬ。はやくメリケ(アメリカ)のエベセが話せるようにならねば、わしらの役目がつとまらぬ」

エベセとは英語のABCのことである。

権之丞は旗本の長男として江戸で生まれ育った。気のいい江戸っ子気質で人に好かれたが、まさか外国奉行方同心として、小笠原群島に捨て置かれるとは思ってもみなかった。それは和一郎も同じであった。

江戸をはなれたことのない権之丞が、外国奉行・水野筑後守に、

《小笠原島 御開拓御用》

を下命されたとき、

「どうしてこのわしが、重罪人が流される八丈島よりはるか先の、鬼の住むという無人島なんぞに行かされるのじゃ」

と嘆いた。太平の世に生きてきた権之丞は、退屈ではあるが江戸城に出仕して勤めをこなし、あとは江戸で遊んで暮らしたいと思っていた。

だがペリ―が浦賀にやってきてから、権之丞の生活が一変した。それまで勤めていた「海防掛」が、切迫した時世にあわせるために「外国奉行」に改められ、海防とあわせて外交もこなす重要な役所となった。

幕閣の小笠原群島への関心は、アメリカとイギリスの捕鯨船団の北太平洋への進出であった。一航海に数年かける捕鯨船団が日本近海にあらわれ、石炭の補給基地として小笠原群島に目をむけた。

慌てた幕府は、小笠原群島は日本固有の領土である由来を書状に詳しく誌して、米英に領有宣言をするとともに、日本での捕鯨事業を提案している漂流民のジョン万次郎を、「鯨漁御用」に任じて小笠原開拓にのりだしたのである。

「わしらがこんな無人島に流されたのも、もとはといえばペルーの鯨好きのせいじゃ」

権之丞がうらめしげにいった。

アメリカ最大の捕鯨基地プロヴィデンス出身のペリーの最大の目的は、日本の開国などよりも、極東での捕鯨船団の補給基地の確保であった。ペリーは日本来航の帰路に、那覇に補給基地をつくり、小笠原群島にも回航して「米国領有宣言板」を残して去った。そのために外国奉行勤めの権之丞の運命は狂いはじめた。

落胆する権之丞と同じように、大目付方の和一郎も運命の波に流された一人である。二年前に嫁をもらって娘ができ、江戸にいて大目付同心として、事なく勤めを終えるつもりが、絶海の小笠原群島に派遣されてしまった。

 

 

文久元年(一八六一)十二月。小笠原開拓の主唱者である安藤対馬守の命で、アメリカから帰って幕臣に取り立てられたジョン万次郎を通訳として、小笠原調査・開拓のために咸臨丸が派遣された。

咸臨丸のボ―トで上陸した万次郎が見たものは、島に翻っている星条旗であった。

すでに小笠原父島には、アメリカ人のナサニエル・セイボリ―が、グァム島原住民の妻と十一人の子供とともに住み、島民の支持をえて父島の統治にあたっていた。他にイギリス人、アメリカ人など外国人三十六人が定住し、家数は十九戸あった。

ジョン万次郎が通訳となって、統治者の地位にあるセイボリ―と会談がはじまった。

万次郎が話しだすと、セイボリーが驚きに目を丸めて、会話をさえぎった。

「お前さんの顔は日本人のようだが、ひょっとしてその言葉から察すると、アメリカ東海岸の生まれかね」

筒袖山袴に日本刀を二本差した侍姿の万次郎の英語は、上品でおだやかなニュ―イングランドの発言であったからだ。

「いいや。わしは日本の漁師の倅じゃ」

背は低いが、がっしりした体のジョン万次郎が、子沢山のセイボリ―に笑いかけた。

「だが驚いたぜ、ジョン・マン。あんたは俺より上品な東部英語を話すんだからなあ」

「わしは十五歳で漂流して、マサチュ―セッツの学校に通った。それから捕鯨船に乗り組んで、世界の海に乗り出したんじゃ」

万次郎の四角ばった顔の目は小さいが、笑うと人を魅き込む優しさをもっている。

「そうかね。話し声だけ聞いていると、ニュ―ベットフォ―ドの船長さんが、目の前にいるような気分になる。あんたが相手なら肚を割って話せるぜ」

「では幕府の意見を聞かせる」

ジョン万次郎は幕府の小笠原統治計画を話した。島の帰属は日本となるが、セイボリ―他の居住権を認め、これからも小笠原に住んでもらいたいといった。

「そうかね。俺はどこの国の国旗が翻ろうとも、問題じゃねえ。問題はこの島での安定した生活さ。それを日本人がやってくれれば、俺はいつだって日本人になってやるさ」

セイボリ―は歯の抜けた口でニッと笑った。

「それに開拓者の農民を、八丈島から送り込みたい。島で農業を根づかせたいことと、製塩をして島の交易品にしたい。もちろんわしがやりたいことは捕鯨事業だがね」

「なんでもやったらいい。働き者が島に来てくれたら大歓迎さ。土地はいくらでもあるし、家を建てる材木も、ほれ、あそこの船に積んだままで余っている」

セイボリ―は内心でほくそ笑んだ。

島には捕鯨船からボートで脱出した海賊まがいの船員が上陸し、酒を奪って乱痴気騒ぎをおこしたり、娘をつけ狙ったり、セイボリ―もさんざんな目にあっている。

セイボリ―の宝物の豚も狙われた。島の単調な生活に飽きた水夫どもは、立ち寄った捕鯨船で帰る者が多かったが、なかには島でふしだらな生活をつづける者もいる。そういう連中は鉄砲をもち、セイボリ―の大切な豚を盗んで食い、まるで働かない怠け者の悪党であった。

刀を二本差した侍なら悪党どもと闘えるし、大切な豚も娘も守ってくれる。働き者の農民が島にくれば、凶作の多い島の作物は安定する。

セイボリ―はジョン万次郎が英文に翻訳した覚え書にサインし、島民の十一人の男にも連署させた。

こうして島の先住外国人との話し合いは上首尾に終わったが、外国人統治のために、父島に役所をつくり、幕府島役人を残していく難題が残った。

誰もが八丈島よりさらに遠い小笠原に、言葉の通じない夷人と居残って生活などしたくない。

「だれそれは外国奉行様に、多額の賄賂を渡したそうじゃ」

咸臨丸の船中でそのような噂が流れはじめた。

「まさか島に居残る御役目が、袖の下で決まることもなかろう」

呑気な権之丞はたかをくくった。一本気な和一郎もそうであった。

だが咸臨丸派遣が決まったとき、多くの者は内々に鎧や着物を質草にして、苦労してつくった金子を、奉行支配調役に賄賂として差し出したらしい。

「しまった」

と二人が思ったときはもう遅かった。

こうして咸臨丸は小笠原父島を去り、外国奉行付同心として松浪権之丞、大目付として林和一郎の二人が、絶海の孤島に置き去り同然に残されたのである。

 

 

(二)

小笠原父島に残された権之丞と和一郎は、先住の外国人と意志を疎通させるために、いやいやながら英語の勉強をはじめた。

幕府は小笠原の開拓について、必要な物資と農民を送る計画を立てているが、この遠い絶海の孤島に、いつ次の船がくるかわからない。

二人に残された米、味噌の食料品は多くない。二人は幕府の役人として、小笠原住民を統治する形になったが、実際に生活をつづけるには島の住民とうまくやり、食料もわけてもらわねばならない。

「なんとしてもエベセを覚えねばいかん」

椰子の葉で屋根を葺いた板張りの二人の住居には、ジョン万次郎が幕命により作った、

《英米対話捷径》

という英会話の小冊子が置いてある。

その見出しの一頁目に、

『エベセ之文字。

エベセ ヲフ ズイ ラタァ。』

と片仮名で記され、ついで英文字が、

『ABC of the letter』と綴られている。

土佐沖で嵐にあって漂流して、十五歳でアメリカ本土に渡って教育をうけたジョン万次郎の英語は、耳から覚えたものである。

万次郎は英語の発音を片仮名であらわすのに苦労した。Dをリーと片仮名で訳したが、早口でくり返すと、流暢なアメリカ英語になった。

「通辞(通訳)の万次郎という男は、土佐の漁師の倅という話じゃが、日本に帰ってから読み書きを覚えたそうじゃ。覚え書の字もなかなかの達筆じゃった」

あきらめ顔の権之丞がいった。

ジョン万次郎はアルファベットの基礎を覚えさすのに、

『ABCの歌』

に節まわしの記号を付けて、歌で日本人に教えようと考えた。

二人は照れくさそうに「エ―、ビ―、シ―、リ―」と節をつけて、毎日口をうごかして歌を唄った。

戸のない二人の部屋に、セイボリ―の子供たちが、物珍しそうに集まってきて、二人を見て笑った。

語学は一種の勘である。暖かい南国の子供は物おじせずに、二人に近づいてきて、英語で話しかけてくる。権之丞のほうが英語の覚えが早かった。権之丞は島の子供を相手に、英語の稽古をするのが楽しみになった。

語学というものは不思議なもので、二人のうち一人が上達すると、片方はその一人に頼りきってしまう。権之丞の英語はみるみる上達した。やがて和一郎は釣りをしたり、魚を煮炊きする役目になった。

権之丞は片ことの英語が話せるようになると、『英米対話捷径』を片手に、島の様子の探索をはじめた。

 

 

島の外国人の人間関係が少しずつわかってきた。

大まかな勢力図は、セイボリ―の大家族を中心とする定住者と、後から小笠原父島に逃げ込んできた、犯罪者まがいの乱暴者の二集団がいることであった。

ジョン万次郎が島を去るとき、権之丞にした説明によれば、

「セイボリ―はペリ―艦隊の代理人に任命されている」

ということであった。

ペリ―が日本への第一次来航の際、旗艦「サスケハナ」を率いて小笠原群島に来航し、父島の海岸を補給倉庫用に購入し、この土地の管理をセイボリーに委託して、さらに他国との交渉役の代理人に任命したという。

「ならばセイボリ―は島の代官じゃな」

釣ってきた魚をさばきながら和一郎がいった。

「いや。どうもそうでもないらしい」

と権之丞が首をかしげる。

「ここの連中に身分に上下がないようじゃ。どうにも不思議なことじゃ」

二人の頭では日本の村には代官がいて、大名と侍のように身分の上下がはっきりしている。だがセイボリ―は小笠原群島の統治者ではなく、島民に一時的に選ばれただけの代表であるらしい。そういう人間関係は二人には理解できない。

セイボリ―と対立する乱暴者の筆頭は、ジョ―ジ・ホ―ツンというイギリス生まれの老人だった……のちに万次郎によってわかったことは、七十九歳になるホ―ツンはイギリス海軍水兵として、コペンハ―ゲン海戦、ナイル海戦を戦ったのち、アメリカ海軍の水兵になりペリ―艦隊に乗り組んだ。

アヘン戦争の経験もあり、黄色い膚の東洋民族を徹底的に軽蔑している老人だった。

嘉永六年(一八五三)。ペリ―艦隊のプリマス号に乗り組んで日本に来たホ―ツンは、その帰路、高齢のためにアメリカ軍籍をはなれて父島に上陸したが、性格が粗暴で、態度が高圧的なために島民に嫌われた。

ホ―ツンが老後を父島で住もうと思った理由は、

「父島にはろくな男しかおらん。わしが島を乗っ取って、支配者として生活してやる」

という独善的な目的だったらしい。

父島にはホ―ツンの他にも、捕鯨船で悪業を働き、父島に逃げてきた者がいた。

捕鯨船の射手のウイリアムス・スミスもそうである。銛打ちとしての腕はいいが、船の備品を盗むなど素行が悪く、小笠原で下船するといったとき、船長はせいせいして胸をなでおろした。

このスミスはホ―ツンと気が合って、二人で組んで島を乗っ取ろうと、六連発短銃をちらつかせて悪さをくり返していた。

だがセイボリ―を中心にした島民の結束はかたく、ホ―ツンはときおり追われて岩場に逃げ込み、洞窟に隠れた。スミスは船が入港したときは雑用を手伝い、その金でウイスキ―を飲んで暴れるとき以外は、おとなしくしていた。

権之丞が子供相手に英語の勉強をしていた昼下がり、海に貝を採りにいった和一郎が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。

「どうしたのじゃ」

「夷人の爺々が、いきなりわしに鉄砲を射とうとした」

「鉄砲じゃと。おぬしはその爺々になにかしたのか」

「なにをしたかもあるものか。浜で貝を採っていたわしに、大声で喚きながら近づいてきて、いきなり鉄砲を腰から引き抜いたのじゃ」

「それは一大事じゃ。まずは浜まで行ってみるか」

二人は大刀を帯びて駆け出した。

部屋にいた子供たちが、面白半分でついてくる。

浜には誰もいなかった。白い砂浜に小波が打ち寄せている。

「どうやら逃げうせたようじゃ」

和一郎が砂浜に残された足跡を見ていった。足跡は岩場に向かってつづいている。

「どのような顔の爺々じゃった」

「わしには夷人の顔など区別はできぬが、白髪も髭も伸び放題で、赤い大きな口をした赤鬼のような爺々じゃった」

「赤鬼か……」

権之丞が苦笑した。まさに自分たちは絶海の孤島の、赤鬼・青鬼の住む鬼ヶ島に流された流人と同じ境遇である。

そのとき岩場に赤鬼が姿を見せた。いままでに見たこともない恐ろしげな顔の老人である。赤い口を大きくひらき、威嚇するように獣のような大声をだした。年ははっきりわからぬが、遠目に見て八十歳に手がとどきそうに思える。

「ホ―ツン、ホ―ツン」

子供たちが口々に叫んだ。なかには小石を拾って投げつけた子供もいる。

「どうやらホ―ツンらしいな。子供たちが石を投げようとするのは、島では嫌われているからじゃ」

ホ―ツンと呼ばれた老人は、岩の上で憎々しげに両手を振り上げると、老人とは思えぬ身軽さで岩陰に身を翻して姿を消した。

「さてどうする」

権之丞が和一郎にいった。

外国方同心として、調書を幕府に差し出すときに、幕府役人である二人が、島でどう動いたか報告せねばならない。

和一郎が大刀を肩にかついでいった。

「わしらの役目は先住のセイボリ―たちが、この島で住みやすくすることじゃが、ホ―ツンの爺々はいつも鉄砲を持ち歩いている。厄介なことを引き起こすようなら、捕縛せねばならぬ」

「だがホ―ツンは初めて会う者は脅すようじゃが、それ以上の手出しはせぬらしい。このままほうっておいても害はなかろう」

セイボリ―の意図は、ホ―ツンとスミスを島から追い出したいらしいが、幕閣の事なかれ主義に慣れた二人は、アメリカ人同士のいさかいに首を突っ込まぬことにした。

 

 

(三)

ジョン万次郎が「一番丸」という捕鯨船で小笠原父島にやってきた。

アメリカで航海術を学んだジョン万次郎は、その後は捕鯨船に乗り組み、捕鯨が日本の国益になることを幕府に唱えていた。

その万次郎に富豪の協力者があらわれた。越後の大地主で、万次郎から英語を学んでいた平野廉蔵が、万次郎の捕鯨事業を実行すべく洋式捕鯨船を買い入れ、これを「一番丸」と名づけて、幕府と共同で捕鯨事情に乗り出したのである。

「おお。松浪さんも林さんも日焼けして、元気のようじゃ」

久々に会う万次郎が、四角い顔の目を細めた。

「わしはおぬしの英米語の本を片手に、言葉を覚えるのに懸命じゃったから、退屈はしなかった」

「ならば英語はかなり上達しましたかの」

「島の子供と挨拶くらいはできるようになった」

「それはよかったですのう。林さんはどんなですきに」

「わしはアメリカ言葉は不得手じゃ。ひまじゃから釣りばかりしておった」

権之丞も和一郎も、久しぶりの日本語に饒舌になっていた。

「それでこの一番丸で捕鯨をやるのか」

「そうですが、この一番丸には鯨を捕るキャッチャ―ボ―トがないですきに、まずこの島の船大工を使うてボ―トを作ります」

キャッチャ―ボ―トの船材は一番丸に積んである。万次郎は父島で外国人の大工を雇った。絶海の小笠原群島までくる男たちは、なんらかの形で船や航海にかかわってきた男たちである。作業は順調にすすみ、まもなく二隻のキャッチャ―ボ―トが完成した。

権之丞と和一郎は朝から晩まで見物にきて、ときには船材を運ぶ手伝いもした。

権之丞には一つの楽しみがあった。それは万次郎に英語を教わることであった。日々子供の英語を耳にしているせいか、不明な個所を万次郎に聞くことによって、権之丞の英語は上達した。

「このまま上達すれば、松浪さんは幕府の通辞(通訳)になれますのう」

お世辞でも万次郎にそういわれると嬉しかった。

「さてつぎは捕鯨船の銛打ちと、舵取りを雇わねばならん」

さいわい島には捕鯨経験の長い射手・フランス人のルイ・ルジュ―ルがいた。ルジュ―ルは片ことの英語で、万次郎と条件面の交渉をした。

「ボンブランス破裂銛を射てるかね」

「慣れているさ」

「何本射ったかね」

「数えきれねえが、五十本は下らねえ」

「よし。お前さんの経験からすれば、日給は一日三ドル支払おう。ただし腕が口ほどでなかったら、オ―ルの漕ぎ手に格下げで、日給は一ドルじゃ」

「歩合はどうなる」

「そうじゃな。十メ―トルを越えた大物ならば、一頭につき百ドルでどうじゃ。それ以下なら半額じゃ」

「仕方がねえな」

ルジュ―ルはしぶしぶうなずいた。

なにも知らぬ日本人に相場の倍をふっかけるつもりだったが、船長のジョン万次郎は、どの国の捕鯨船の船長にも負けぬ知識をもっている。

もう一人射手が欲しかった。乱暴者のスミスが自ら名乗りでてきた。

「ジョンの旦那よ。俺ならルジュ―ルの野郎なんぞに負けねえよ。やつより高く雇ってもらいてえ」

「なにを投げていた」

万次郎が狡そうなスミスの目を見すえた。

「手投銛を投げれば百発百中だぜ。炸裂銛も数回やったことはある」

「いまは炸裂銛の時代じゃ。手投銛なら一日二ドル払ってやる」

「なにっ」

スミスは目をむいたが、急にお愛想笑いをうかべていった。

「ジョンの旦那よ。一日二ドルをのむかわりに頼みがあらあ。前払いで百五十ドル貸してくれねえか。俺の取り分から差っ引きでいいからよ」

ジョン万次郎は舵手として、目がとび抜けていいチャ―リ―とジャックの二人を雇い、それぞれに鯨が捕れたときの歩合を決めた。

そのとき日本人を威嚇するように大股でホ―ツンがあらわれた。

「おい。そこの船長。俺さまは日本政府をちぢみ上がらせたペリ―艦隊の古参水兵だ。日本人なんぞは糞でもねえが、金をたんまり払うなら、舵取りで働いてやってもいいぜ」

「あんたは船で統制を乱す男じゃ。雇う気はない。とっとと去せろ」

万次郎は断固とした顔で追い返した。

「貴様! あとでほえづらかくな」

万次郎の交渉を横で見ていた権之丞がいった。

「万次郎さん。お願いがござる」

「なんですかのう」

「わしら二人を一番丸に乗せて、捕鯨を見せてもらえぬか」

「たやすいことじゃ。お二人の口から捕鯨のことを、幕府によく口添えしてもらえれば、

日本で捕鯨が盛んになる。それはわしから頼みたいことじゃった」

 

 

準備をととのえた一番丸は、父島の沖に船出した。

万次郎は前年に咸臨丸で小笠原群島近海を調査したとき、父島沖で尾鰭を打ち立てた十頭ほどの鯨の群れを見ている。

「この辺りは鯨の通り道じゃ。最初に見つけた者に五ドルだす。気張って鯨を見張るんじゃ」

鯨が回遊する海の道は、ほぼ決まっていた。

万次郎は自らマストの見張り場に登り、遠眼鏡で海面を凝視した。夏のような陽ざしが、

小笠原の青い海に照りつけている。波は穏やかであり、うねりが一番丸をゆっくり上下させる。

甲板に立った権之丞は、初めて目にする捕鯨に心を躍らせた。海上には万次郎が藤九郎とよぶ大きな鳥が、白い羽根をひろげて舞っている。

権之丞は和一郎を見た。船に強くない和一郎は、目を閉じて甲板に寝そべっている。どうやら船酔いしたらしい。

「見えたぞ。鯨じゃ」

マストから万次郎の興奮した声がした。

「右舷の百間(約一八○メ―トル)先に二匹おる。右舷にむかえ」

マストから降りてきた万次郎は、同じことを英語で叫んだ。

一番丸が右舷に方向を変え、がぜん甲板が騒がしくなった。

「キャッチャ―ボ―トを降ろせ。わしも乗る」

新造された二隻のキャッチャ―ボ―トが海に浮かんだ。

射手のルジュ―ルとスミスが、重いボンズランス炸裂銛を抱えて、二隻のボ―トの舳先に座り、水夫たちがオ―ルを握った。

「さあ漕げ。鯨を追いつめよ」

万次郎の顔がきびしい船長の顔になっている。

二隻のキャッチャ―ボ―トが鯨を追いはじめた。左の海面に高い潮吹きが見えた。

「左にも鯨がでた。スミス。お前はあれを追え」

「アイ、アイ、サ―」

素行の悪いスミスが素直に従う。スミスも鯨を追いはじめると表情が一変する。

万次郎の乗るボ―トの舵手は、目がとびぬけていいチャ―リ―である。舵手は鯨が潜水した息を測り、浮上海面を推測しながらボ―トを進める。舵手の腕前が悪いと、鯨に逃げられる危険がある。

チャ―リ―は鯨が浮上して潮を吹き上げるたびに、着実に鯨との距離をつめていく。

「それ漕げ。もうちょっとじゃ」

鯨を目前にした万次郎が、水夫を叱咤する。捕鯨の経験のない日本人水夫は、なにがなんだか訳がわからないままに、長いオ―ルを漕ぎつづける。

舳先のルジュ―ルは、冷静に鯨との距離を目で測っている。ときおり左手で舵手のチャ―リ―に合図を送り、銛を放つ絶好のボ―トの位置をさぐっている。

ルジュ―ルの手にした炸裂銛は、銛先が鯨の背中に垂直に突き立つや、その衝撃で火薬が爆発して、鯨の皮膚を破り、銛先が体に突き立つ。

銛が深く突き入らないと、鯨の厚い皮にはじき飛ばされる。それだけ銛を垂直に打ち込む必殺の技術が要求された。

キャッチャ―ボ―トの眼前に、鯨の濡れ光った胴体が浮上して、並んだ。

「今じゃ」

ルジュ―ルが銛を高く投げ上げた。宙に投げ飛ばされた重い銛は、空中で反転して、鯨の胴体に直角に命中した。

ボオン!

銛先から鈍い破裂音がひびき、鯨のぶ厚い皮膚が裂けた。

「やったぞ」

皮膚から血を流した鯨は、海中深く潜っていく。轆轤に巻かれた銛綱が、みるみる海中深く伸びていく。

「大物じゃ。沈んだらなかなか浮かんでこぬ」

銛綱が轆轤に擦って煙を上げている。

「綱が焼き切れる。水をかけよ」

轆轤に柄杓で海水がかけられた。

銛綱に引かれたキャッチャ―ボ―トは、舳先を沈めながら矢のように走る。ボ―トが波をうけて震動し、いまにも壊れんばかりに揺れ傾ぐ。

銛綱は三百尋(約五四○メ―トル)を越え、さらに鯨は底知れぬ深みへと潜っていく。

「万次郎さん。これはいけん。銛綱に引き込まれて船が沈むぞ」

日本人水夫が動揺して、銛綱を切れと万次郎に叫んでいる。

二本目の炸裂銛を手にした射手のルジュ―ルは、日本人水夫を嘲け笑うように舳先に立った。

「日本人がおたつくんじゃねえ。もう数分で浮き上がってくる。そのときにもう一本銛を決めれば勝負はつく」

鯨の浮上時に立ち昇る気泡の「もおじ」が、かすかに海中に見えた。

ルジュ―ルはチャ―リ―に浮上海面を指し示した。

「あのあたりに浮くぞ」

チャ―リ―はたくみに舵をとってボ―トを鯨に近づける。落ちつきをとり戻した日本人水夫が、銛綱を轆轤に廻して巻き上げた。

白波とともに海面が割れた。銛を背中に突き立てた鯨は、血の混じった潮を吹き上げた。

鯨は弱っていた。

「しゃあ!」

ルジュ―ルが吐息とともに銛を投げた。二本目も命中して鈍い破裂音がひびいた。

二回目の潜水は五十尋ほど潜水しただけで、すぐ浮き上がり、やがて鯨は波間に腹を上にして息絶えた。

「やったぞう」

喜びをあらわに拳を突き上げたのは舵手のチャ―リ―だった。

「俺たちの鯨は、みごとに十メ―トルを越える大物だぜ。これでルジュ―ルは百ドル、俺は五十ドルを手にできる」

一番丸が近づいてきて鯨に網が掛けられた。

「万次郎さん。みごとな大物じゃ」

船べりから権之丞が声をなげた。あっというまの出来ごとに思えたが、仕留めるのに一刻半(三時間)かかっている。

そのとき遠くの海面から、合図の白煙が上がった。

「二頭目じゃ。スミスもうまく仕留めたようじゃ」

万次郎が嬉しそうに口笛を吹いて答えた。

 

 

父島の二見の浜辺で、二頭の鯨の解体がはじまった。

薙刀のような大切包丁をもった外国人が、脂肪のついた外皮を厚く削ぎ、四角に切って煮釜に入れて鯨油を採る。

「松浪さん。この鯨肉を食うてくれ。アメリカ人は食わぬが、これはうまいきに」

「これはなんじゃ」

権之丞がおそるおそる手にとった。

「山之皮(頭皮)じゃ。わしはこれを焼いて食べるのが好物じゃ。ほかに尾の肉は口でとろけるうまさじゃ」

権之丞が初めて食う鯨肉を口に入れた。

「おお。これはうまい」

「この茹でた百尋(腸)も、噛んでおるうちに味がしみでる。林さんもどうじゃ」

和一郎も百尋を口にした。噛んでる顔に笑みがうかんだ。

万次郎の話では、魚を食べないアメリカ人の捕鯨船は、鯨油を釜で煮て採るだけで、肉は海に捨ててしまうという。

だが魚を常食する日本人の舌には、鯨の肉や内蔵は極上の味であった。

満腹した権之丞がいった。

「のう万次郎。灯明用の鯨油がこれだけ採れて、しかもこのようにうまい肉や腹腸が食える鯨を、ほうっておく手はないのう」

和一郎もうなずく。

「おぬしがいればこの無人島で鯨が捕れる。さすれば無人島ではなくなる。わしも幕閣にそのように書き送るぞ」

さいさきよく最初の捕鯨で二頭が仕留められた。そのうえ幕府の島役人が、捕鯨の有用さを認めてくれた。

万次郎の日焼けした顔に笑みが浮かんだ。

 

 

残った肉や内蔵を塩蔵した万次郎は、ふたたび出港した。

「つぎの航海は乾(北西)へ行ってみるきに、三、四日はかかる」

「なぜじゃ。この近くに鯨は、まだ何十頭もおるではないか」

いまは捕鯨の虜になった権之丞がいった。

「この無人島では、いつでも鯨が捕れることがわかった。さすればわしが漂流して生き残ったハレケン・アイランドが乾の方角にある。その島を日本のものにしておけば、いつでも大手をふって鯨が捕れる。そのための用意じゃきに」

土佐沖で漂流した万次郎が、運よく流れ着いたのが鳥島であった。アメリカ人はハレケン・アイランドという。その鳥島に上陸して、日本の領土を標示するために、木柱を建てておくと万次郎はいった。

「それはええ考えじゃ。わしらではそんな知恵は浮かばぬが、さすがに万次郎さんはアメリカで学問をした男じゃ」

外国方の権之丞が感心した。

一番丸は北西にむかった。万次郎が六分儀で天測をして位置を知り、三日目に小さな島影を発見した。

「あれはまちがいなくハレケン・アイランドじゃ」

万次郎の目に涙が浮かんでいる。二十二年前に十五歳で漂着し、アメリカの捕鯨船に助けられた。数奇な運命ののちに、ふたたび日本の捕鯨船でやってきた。

島に近づくと、褐色の岩膚がつづく島の山の頂きが、真っ白になっている。

「あの白いものはなんじゃ」

権之丞が島を見上げていった。

「藤九郎(あほう鳥)の糞じゃ。わしらはあの藤九郎を食って生きのびた。命の恩人の島じゃ。懐かしいのう」

万次郎は二人をつれてボ―トで上陸した。昔と同じあほう鳥が人間を恐れず、島の山はだを埋めつくしている。

万次郎はあほう鳥をかきわけて進み、島の高所に水夫に担がせた木柱を建てた。

新しい木柱には、能筆の権之丞が墨書した文字がみえる。

《大日本属島 鳥島 文久三年癸亥三月廿四日建之 船長中浜万次郎 松浪権之丞 林和一郎》

「これでよし。このハレケン・アイランドはもともと日本のものじゃし、これからは大手をふって来られるわい」

万次郎が島の頂きから、四方にひろがる青い海を見わたして笑った。

なんとなく外国奉行方の役人になり、そのあと賄賂を渡さずに小笠原に置きざりにされた権之丞は、このとき万次郎のおかげで、初めて大きな任務を果たしたような気になって、

気分がひろびろと大きくなった。

 

 

(四)

鳥島から小笠原一帯で捕鯨を行い、薪水を補給するために父島へ帰港する一番丸の船中で、権之丞の心に変化が起こった。

このまま小笠原に居残って、八丈島からの移民を迎えて農業をおこし、万次郎とともに捕鯨事業を盛んにする覚悟が、ふつふつとわき上がってきたのである。

「わしは万次郎さんと鯨を捕る。おぬしはどうじゃ」

一番丸の甲板で権之丞がいった。

「わしも江戸城のお勤めよりも、この海で体を張って生きるのがおもしろうなった。わしも島に居残る」

和一郎も最初は、江戸に残した妻のことをよく口にしたが、万次郎と会ってから海を見る目が輝いてきた。いま二人ともせせこましい江戸に帰る気はなくなり、広い大海原を見て鯨を追う生活が気に入っていた。

それに権之丞にとって、もう一つ嬉しいことがあった。

「松浪さん。おんしのアメリカ言葉は、わしのようにうまくなった」

と万次郎にいわれたことである。

一番丸の船内には外国人が乗り組み、話す言葉は英語である。知らず知らずに権之丞の英語は上達し、捕鯨に関してのやりとりならば、ルジュ―ルたちとも通じあうようになっていた。

「林さんも英語を話されたらどうじゃ」

万次郎がいった。

「いや、わしは、夷人の言葉はどうも……」

和一郎が頭をかいた。

父島の手前の兄島沖で凪になった。

「しばらくは水も浴びておらぬ。今夜はボートで島に上陸して休んでよい」

万次郎はルジュ―ルたち外国人に上陸の許可を与えた。

「ひゃっほう!」

ひょうきん者のチャ―リ―が奇声を上げて、ボ―トを降ろして飛び乗った。

そのとき射手のスミスが、自分の荷物を両手に抱えて、ボ―トに乗ろうとした。

「どうしたスミス。今晩は島に上陸する許可はしたが、下船することは許しておらぬ」

「うるせい。日本人のお前に、いちいち指示される覚えはねえ。俺は俺の好きにする」

いきなり豹変したスミスに驚いた万次郎が、スミスを盻みつけていった。

「馬鹿をいうなスミス。お前には日当を百五十ドルも先払いしてある。このまま船を下りる権利はお前にはなかろう。島へ上陸したければ、荷物を船に置いておけ」

そういった万次郎は、じつはスミスを船に留めおきたかった。

というのは船中の備品がときどき盗まれており、この航海が終わったら、スミス本人の立ち会いのもとで、荷物の中を調べたかった。

だがいまは船長として、乗組員を公平に扱わなければならない万次郎は、身ひとつでスミスの上陸を許した。スミスは唾を吐き捨てボ―トに飛び乗った。

翌朝スミスを除く外国人はすべて帰船したが、スミスは昼すぎにホ―ツンとともに帰ってきた。

「なんだスミスの野郎。どうしてホ―ツンの爺々なんかと来やがったのだ」

チャ―リ―が舌打ちをした。

「ホ―ツンの野郎が来ると、ろくなことはおこらねえ。なにをする気なんだ」

スミスに続いて、ホ―ツンが七十九歳の老人とは思えぬ身軽さで一番丸に乗り移った。

「おいスミス。わしの許可もなく、なんでこんな爺々をつれてきた。すぐ下船させろ」

背の低い万次郎が、ホ―ツンの前に立ちはだかった。

「威張った口をききやがるな。この日本人めが。俺さまが乗っていたペリ―艦隊の軍艦は、こんな小っぽけな船じゃねえ。いっとくが、俺さまは黄色い東洋人なんぞ怖くはねえ」

「この船になんの関わりもないおまえがなにをいう。その汚い口を閉じろ」

万次郎を見下すホ―ツンの罵言にも動じない。

「アメリカ水兵の俺さまに、偉そうな口をきくじゃねえか。こんなボロ船の船長になったくらいで威張るんじゃねえ」

「そんなことはどうでもいい。いきなりわしの船に何の用で来た。用件をいってみろ」

「用がなければ、こんなボロ船まで来るもんか。聞きやがれ。貴様はスミスの荷物を奪ったそうじゃねえか」

「なんだと。スミスには船を降りられん理由がある。スミスに聞いてみよ」

権之丞はなにが起こったのかと見守ったが、早口の英語で二人がなにをいい争っているのかわからない。だが万次郎の一歩も退かない毅然とした態度が目にやきついた。

「スミスは貴様に瞞されたんだ。痛い目にあいたくなければ、さっさと荷物を渡しな」

「おいスミス。いうことにことかいて、こんなゴロつき爺々を船につれてくるとはどういうことじゃ。どうせありもしない大嘘を、この爺々にふきこんだんだろう」

二人の口論を聞いていた権之丞の肩を叩いた者がいる。

見ると舵手のチャ―リ―が、拳銃の筒先を権之丞に向けている。

「な、なにをする」

狼狽した権之丞が叫んだ。

恐怖に引きつった権之丞の顔を見てチャ―リ―が、

「ノ―、ノ―」

と笑いながら拳銃を差し出した。

肩で息をついた権之丞が、咄嗟に英語を口にした。

「どこに……あった?」

「あのボ―トだ」

チャ―リ―はスミスが乗ってきたボ―トを指さした。おそらくスミスかホ―ツンのものだろう。二人のいい争いはつづいている。

「とにかくこのゴロつき爺々を、いますぐ船から下ろせ。わかったなスミス」

「この日本人め。俺さまのことをゴロつき爺々じゃと」

顔に血を上らせたホ―ツンが、懐から拳銃を引き抜こうとした。

だが、ない。慌てたホ―ツンはボ―トに駆け戻った。

「万次郎さん。あの舵手がこれを」

「おお。六連発の拳銃じゃ。これをどうして松浪さんが」

「あの舵手がボ―トで見つけたらしい」

ボ―トに拳銃が見当らないホ―ツンは、船上の水夫の肩をこづいてまわった。

「おい貴様ら。俺さまの拳銃をどこへやった。陸でこの懐にしっかり差し込んできた拳銃が見当らねえ」

「ホ―ツン。手を挙げてこちらを向け」

万次郎が拳銃をかまえて低くいった。

「あっ。俺さまの拳銃じゃねえか。すぐ返しやがれ」

「この拳銃を証拠として、わしの船での反乱行為として、貴様を裁判にかけてやる」

「なにをいう。俺さまはユナイテットの国民だ。アメリカ人にそんなことをすれば大変なことになる。だが俺さまも海の男だ。その拳銃を返せば、スミスのことはなかったことにしてやる。すぐ返しやがれ」

分が悪くなったホ―ツンは、ここぞとばかりに東洋人の万次郎に高圧的にたたみかけた。

「わしをただの日本人だと思っているのか」

万次郎のぶ厚い唇が引き締まった。

「貴様が日本のなに者だか知らねえが、俺さまに無礼をしてみろ。横浜の領事様が黙っちゃいねえぞ。ほれ、拳銃を返しやがれ」

万次郎は拳銃をホ―ツンに向けたまま日本語で命令した。

「松浪さんに林さん。ホ―ツンとスミスを縛りあげよ。こやつらは犯罪者じゃ」

二人は躊躇した。だが万次郎の毅然とした態度に、体がうごいた。

「わかった」

大目付方の和一郎がすかさず捕縛縄を取り出し、二人を縛りあげた。

 

 

それから万次郎の的確な行動がはじまった。

スミスは万次郎からの前払金の他に、水夫から借りた金を払わずに、盗んだ備品をもって逃げようもくろんだ。ホ―ツンをつれてきて拳銃で脅かせば、簡単に片がつくとふんだらしい。

だがアメリカで教育をうけた万次郎は、スミスの不正を頑として許さなかった。

一番丸の外国人を証人として、その発言内容をその場で通訳して、能筆な権之丞に書きつけさせた。

そればかりではない。父島に上陸して島民を集めた。

「ホ―ツンとスミスに悪事をされた者は、この場で申し出るがよい。しかるのちに横浜の領事に引き渡して裁判にかける」

島で悪業をかさねた二人に、島民から多くの証言が得られた。

ホ―ツンが一番丸に乗り込んできた訳がわかった。

「あのホ―ツンめが、わしの命より大事な豚を、こともあろうに二頭も盗みやがって、一人で骨の髄まで食ってしまった」

セイボリ―が顔を真っ赤にして怒った。

ホ―ツンは悪友のスミスだけが雇われたので、気分がむしゃくしゃし、その腹いせにセイボリ―の豚を二頭盗んで、洞窟で食いつづけ、悪事がばれる前に小笠原を逃げだそうと、スミスの誘いにのって最後の悪行におよんだものらしい。

権之丞はすべてを書き留めた。

「松浪さん。わしが証言した十三人の名を読み上げるきに、それを仮名で書き込んで、本人の証言として下さい」

万次郎によって完全な記録が作成された。こうして日本で始めての国際裁判の調書が仕上がったのである。

一番丸の帰国の日がきた。ホ―ツンとスミスは縛られたまま乗船させられ、横浜のアメリカ領事に引き渡される。

幕府役人としてぬるま湯で生活していた二人は、万次郎の断固とした態度に、あらたな感銘をうけた。

外国人のような仕草で、万次郎の手を握りしめた権之丞がいった。

「万次郎さん。かならずここで捕鯨をやりましょう。また一番丸で父島に来るのを、わしらは首を長くして待っておりますよ」

「かならず来るよ。松浪さんと林さん。あんたらは頼れる相棒になるきに」

「はっはは。万次郎さんにそういってもらえると、わしらは嬉しい」

権之丞と和一郎は小笠原父島に居残って、移民を世話をやきながら、万次郎とともに捕鯨事業に乗りだす覚悟をかためた。

 

 

幕府の政情が暗転した。

小笠原開拓の主唱者である安藤対馬守が、桜田門外で井伊大老が殺害されたあおりをうけて、失脚してしまったのである。

五ケ月後に幕府の朝陽丸が父島にきた。

父島の居住民のように黒く日焼けした権之丞と和一郎が、待ちかねてボ―トに駆けよった。

「松浪殿と林殿ですな」

初めて見る幕史が、二人に小笠原開拓の中止を伝え、すでに運び込んだ開拓物資を引き揚げるといった。

「それで万次郎さんはどうされた」

「薩摩の島津公に招かれて、洋船の航海を教えておるという話じゃ」

「鯨漁御用方はなくなったのか」

「わしは引き揚げの命しかうけておらぬゆえ、鯨方のことはよくわからぬが、たぶんそうであろう」

「なんということじゃ……」

権之丞は気が抜けて海辺に座り込んだ。あれほどに江戸に帰りたかった自分が、いまは島に残れなくて落胆している。

「また無人島にもどってしまうのか」

権之丞が白い砂浜でつぶやいた。

横に立つ和一郎がいった。

「もともとはここは絶海の鬼ヶ島じゃ。万次郎さんと鯨の夢を見たと思えばよい。……そうではないか」

 

 

江戸に引き揚げる朝陽丸の甲板で、権之丞と和一郎は小さくなる父島を見ていた。

去りがたい気持ちがつよいが、この無人島で二人はなにをしたのだろうと思った。

「わしはエベセを覚えたことか……」

権之丞がつぶやいた。

「いや。それだけではなかろう。万次郎さんとハレケン・アイランドに柱を建てた。おぬしは外国奉行方としての仕事はやった」

英語嫌いの和一郎が、自然に鳥島をハレケン・アイランドと口にした。

そのとき大きな藤九郎が、海面から急上昇した。青い海面に鯨の尾鰭が見え、高い潮吹きが天に向かって噴き上がった。

やがて二人の眼前からその光景も小さくなっていった……。

 

[完]

実業之日本社 「週刊小説」平成9年5月号 掲載

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