二宮隆雄の物語

昭和21年(1946年)愛知県半田市で生まれる。


幼少のころは鼻を垂らした田舎の子であったが、昭和25年に愛知国体のヨット競技が半田港で開催されたとき、4歳で父親の船からヨットレ―スを見学し、白帆が海に浮かぶ光景をいまも覚えている(他のことはまったく覚えていないが)。
中学まで大きな劣等感をもっていた。父親の卯吉が56歳、母親のとし枝が46歳のときの子であったために、他の子と較べて両親が祖父母みたいで、父兄参観日は学校を休みたかった。

だが半田高校でヨット部に入ると、その劣等感は消え去った。体は小さかったが、ヨットを操る才能を見いだし、ヨットレ―スに夢中になった。とはいえ高校時代はパッとした成績は残せず、インタ―ハイで5位になったのが最高で、国体は予選で敗れた。
高校時代は商船大学に行き船長になるのが夢で、理科系のクラスに進んだ。だが数学と理科の才能がゼロに近いことがわかり、3年間の授業は独学で日本史と国 語を学んだ。つまり高校に行っても先生の理科系の授業中に、自分で日本史の参考書を読み、独学の癖はこの頃から始まったといえる。

立教大学経済学部に入学したが、みなヨット推薦で入学したと思っていたらしい。だがそれは間違いで独学の賜物であった。ヨット部に入部すると三浦半島で200日の合宿となり、授業にはほとんど出ずに4年間で無事卒業する要領を身につけたのもこの時である。
大学時代にヨットの才能は開花した。六大学戦やインカレではオ―ルトップを取り、4年生のときに全日本スナイプ級選手権で優勝した。その翌年1968年に アメリカのフロリダで開催された「西半球スナイプ選手権」にクル―の川村英男君と参加し、日本人として初の海外優勝を果たした。
西半球選手権での優勝とともに、ヨットを楽しむ欧米人の生き方にカルチャ―ショックをうけて帰国した。自分も一生ヨットをつづけたいと思い、26歳の時に ヨット販売の株式会社ニノミヤを創立した。それから数多くの全日本タイトルを獲得し、モントリオ―ル・オリンピック出場めざして世界選手権を転戦した。し かしオリンピック出場の夢は破れ、くわえて会社の赤字が累積して、41歳で退社した。
42歳は男の厄年である。それまでの運のいい人生のツケがいちどきに襲いかかり、すべてを失って人生の表舞台から消え去った。

42歳で無一文になったとき、唐突にひらめいたのが「よし。作家になろう」という途方もない考えだった。なぜそう考えたかは、いまもよくわからな い。だが本も読まず小説を書いたこともないために、まず図書館に行って『原稿の書き方』という本を借りた。つぎは『小説の書き方』である。
小説現代の新人賞に応募した第1作が、3次予選(たしか1500人中の36人)に選ばれたのを知ったとき、飛び上がるほど嬉しかった。素人の自分の書いた ものが一応小説として認められた。真っ暗な闇の中に射し込んだ一条の光である。それから2作から4作まですべてが最終予選の候補に残ったが、目標の新人賞 はとれなかった。


そんなときにヨットレ―スの最高峰〈アメリカズ・カップ〉の日本チ―ムの艇長試験の話がきた。合格すれば日本チ―ムの艇長としてアメリカに行って戦える。 日本では自分が一番の艇長だ。これも暗闇にいる自分に射した別の光明であった。10日間のテストの結果、送られてきたのは「不採用」のハガキ一枚だった。


激怒してすぐ書き出したのが、新人賞を獲得する『疾風伝』だった。艇長試験に不採用になった怒りを、江戸時代の海に込めて一気に書き上げた。スト―リ―は 灘の新酒を積んだ千石船が江戸まで競争する話で、もちろん自分の代役の船頭が一番で江戸に着く。45歳でやっと手にした小説の新人賞である。それから三重 県の海辺に住み、以下の小説を書き始めた。

氏 名  二宮隆雄
生年月日 昭和21年3月生まれ。

これらの作品の多くは、海を舞台にした時代小説で、戦国時代と幕末が舞台となっている。
晩年は視点を変えて、江戸を舞台にした「江戸物」に力をおき、痛快でスケ―ルの大きい作品を目指していた。

 

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