瀬戸内海の中央部にちらばる塩飽諸島は、古来すぐれた水主衆(船乗り)の輩出地として知られていた。ふとい眉をもった千石船船頭の常蔵は、塩飽牛島に生まれ、十一歳のときカシキ(めし炊き)として北前船に乗りこんだ。

外海にのりだす水主仲間の口伝に、

・・・・・・ 船頭のめし炊き。カシキの日和見。

これは他人の領域に興味をしめして、自分の持ち場をおろそかにすれば、船の統制がくずれて危険になることをふせぐ安全則の一つであった。

常蔵はおそるべき子供であった。めし炊きがおわると若衆になんど半殺しにされようと、甲板にでて日和見に熱中した。船の縦社会をまもるために常蔵を殴りつけた若衆も、しだいにその傲岸な面がまえと、的確な日和見に肝をつぶして手をださなくなった。

「汝あ、塩飽島に五十年にいちど生まれるトンビの子じゃ。海路はトンビが空からながめたようにぴたりと当てるし、潮の匂いも三毛猫よりも正確に嗅ぎとる」

鳥瞰的に海をみるトンビのような天才的な才能は、ふしぎなことに年ごとに少しずつ薄れてしまったが、それでも格段にすぐれた海の海技をもつ常蔵は、二十七歳で一船をひきいて自由に海をかけまわり、四十二歳で持ち船船頭として千石積み「権現丸」を伊勢の大湊で建造できたのである。

簀囲いがとりはらわれ、大湊の浜に全容をあらわした新造船は、とほうもなく大きい。

〈これがわしの権現丸か・・・・・・〉

鋭角に切りたった一本水押しをもつ権現丸は、砂浜から海にうかんだ。積み荷のない権現丸は、意外にもかるがると左右にかしいでいる。

まもなく柱立て(帆柱を立てること)のために、大きな水樽が二十樽ほど船艙に運びこまれた。空荷の権現丸はそのままでは安定が悪く、水樽で重心を下げておく必要がある。 ――千石船の一本帆柱は、松明柱と呼ばれる。これは帆柱があまり長大であるために(権現丸は八十尺におよんだ)一本の自然木で造ることが困難で、杉のシン材を中心におき、まわりを縦割したほそい檜材でつつんでいく。これは一本木よりもかえって強かった。

船体とくらべあまりに長大な帆柱は、

――ツヨキ風ニ適イタルトキハ、帆柱、マズ切リ倒シノコト。ソレ船頭ノ裁量ナリ。ソノ費用、船主ト折半スベキコト――

と『尊船要決』に定めてあるように、嵐にあったとき切り倒すいがいに方法はなく、その判断は船頭にあり、費用は船主と半々と決められていた。

文化二年(一八○五)七月十三日。権現丸は早朝に錨をはなって鳥羽をでた。

常蔵は二日前から、たびたび日和山にのぼって天気をみた。その日も暗いうちに起きだし満天の星をよんだ。その日は東寄りの風が吹いていたが、星にも雲にもとくに異変は見当らない。

〈……だが東向きの風むきが、すこし気になる……〉

日和山を下りながら常蔵はそうつぶやいた。ふつうはこの時期、早朝はやわらかい北風がふき、日が高くなると沖から南風が吹き込んでくる。

轆轤で真新しい二十五反帆がわらわらと揚げられ、東の順風をいっぱいにうけた権現丸は、鳥羽の水道を気持ちよくすべりだす。

常蔵は懐に三毛猫を抱いている。遺伝子的にきわめて生まれにくい雄の三毛猫を船乗りは命のように大切にする。猫のそぶりで海の異変がわかるからだ。

「どうじゃ白龍丸、日和のぐあいは」

ミャーと鳴いた白龍丸は、喉でゴロをならしたあと、むずがゆがって爪をたてた。

権現丸の船足ははやく、うねうねと入りくんだ志摩的矢の沖をすぎ、難所として知られる大王崎をかるくかわして、昼まえに熊野沖に達していた。

やはり船は新造にかぎると常蔵に笑みがこぼれた。

カシキの小金次が夜走りにそなえて米を研いでいる。

「どうじゃ、米粒のさわりは」

「いつもとくらべて米粒のさわりがかるいです」

このようなときは薪の燃えがわるくなり、やわらか飯をつくってしまう。

夕方になると風は西にかわり、海中からわいたように濃く霧かかってきた。まもなく権現丸の視界がうばわれた。

「どんな小さなことでも見おとすな。流木一つでも命とりになる」

常蔵はヤマ(見張り台)で見張りに立った。潮岬は三里ほどに迫っている。もし天候が急変すれば浦上の湊へ逃げこめる。常蔵は両眼を大きくひらいて前方を見つづけた。

「目は船乗りの命ぞ。つねに水平線に目をあわせよ」

これも塩飽島の口伝である。眼前に濃い影があらわれた。

島か!

常蔵はさらに目を大きく見開いた。このあたりに島などない。

ふいに霧が晴れた。同時に船影が視界にとびこんできた。

「ふねじゃ!  前方に船がいるぞ」

叫びとともに常蔵は船端をつよく叩いた。

「取り舵!」

四人の舵子が舵棒も折れんばかりに急舵をきった。その瞬間、

バキーン!

生木を裂くような轟音が目のまえでおこり、権現丸が相手の後部甲板に乗り上げた。

そのときの常蔵の判断は本能的といえるものだった。

二艘がはなれる寸前、ヤマからかけおりた常蔵は、もやい綱を相手船に投げわたして大声で叫んだ。

「もやい綱を車立(前部杭)に結ぶんじゃ!  すぐ帆も下ろさせろ 」

潮のつよい海面では、反対方向に行きかわした船が、出遇いなおすには時間がかかる。舵をこわした八重丸を、権現丸がうまく引き綱で曳いたのだ。

「丑寅(北西)にむけて陸を目ざすぞ。このまま行けば浦上の湊に入れるはずじゃ」

帆を張った権現丸が、舵を壊して帆を下ろした八重丸を、ゆっくり曳航しはじめる。

霧のかかった海面は、夜に入ると風が落ちてきた。そのとき暗闇にポツンと小さな灯が見えた。

おうっ。とりかじ(左)に小さな灯が見える」

ヤマから常蔵が喚くように言った。この辺りに灯明台は鯨獲りの太地しかない。

「すぐ甲板で篝火を燃やすんじゃ!」

海から陸の灯が見えるということは、太地からも篝火が発見できるということだ。篝火が見えれば、太地の衆がくじら船をこぎだしてくれる。八重丸の船上にも火がたかれ、二艘は心強い灯の色を暗い海上に煌々とはなった。

風はそよりとも吹かないままに朝をむかえた……。

結局、助け船は出てこなかった。だが午後まで待てば、この時期ならまちがいなく沖から南東風が吹いてくる。多少沖に流されたにしろ、南東の順風を真艫(真うしろ)にうければ、八重丸を曳いて勝浦の湊へ逃げこめる。

昼すぎに西の厚雲がきれた。雲の切れ目に薄紫の山頂がのぞいている。

「おうっ那智のお山じゃ。妙法山や光ヶ峰も見えるぞ。このぶんなら陸からそんなに遠く離れておらん。よかったのう」

だが水主の歓声とはうらはらに、常蔵の胸をするどい不安がよぎっていった。

〈これは大西の兆候かもしれぬ。ひょっとするとえらい事になる〉

この時期に西に吹きぬける大風が吹くことがある。その微かな兆候が、熊野の稜線を切りとったように鮮やかに浮かび上がらせている。

ふいに海面がしろく泡立って、常蔵がおそれる西風が、あっという間に吹いてきた。

「西風じゃ!  帆を四合に下げろ!」

海を犯してきた風圧に、帆桁がギギッーと軌みをあげる。

「曳き綱を二本掛けにして、八重丸が離れないようにしろ!」

ヤマから指示がつぎつぎにとぶ。追い風ならいざ知らず、つよい逆風を間切る力は、権現丸にはない。二艘は傾いたまま沖へ沖へと吹き流されていく。

急にたかまった三角波に、船尾の八重丸がふれ回り、舵の安定が保てない。ながい舵棒がうねりの山で暴れまわり、六人の若衆が両肩を左右から入れてもはじき飛ばされる。

「おい船頭さん。七月というのにこの強い西風はいったい何じゃ。わしにはまったく合点がいかぬぞ」

帆がさらに三合まで下げられた。いまは間切るというより、舵を守って横波を喰わないように走らせているにすぎない。それほどに西風の勢いは急速に増していた。

「ただの風じゃ。オタつくほどのもんではないわ」

常蔵は傲岸に言いはなった。

「西風といっても冬のヤマジとは腰がちがう。まして三晩も四晩も吹きつづけることは絶対にない。半日も気張れば片がつく。気をぬかずにせいぜい頑張ることじゃ」

だが常蔵は勘づいていた。この西風は夏ハヤテにちがいない。昨日の東風といい、吹き出しの早さといい夏台風のわるい前兆がかさなっている。

「船頭さん。早目にもやい綱を切ったらどうじゃ。とも連れはかなわんぞ」

常蔵は無視した。もやい綱が張りきったまま前後の二艘をつなぎとめている。

「くそっ。こんなもやい綱などぶち切ればいいんじゃ。そうすればもっと楽に走れる」

若い舵子は疲労困憊してきた。船を守ろうともろ肌ぬいで舵棒を押しているが、もやい綱が張りきるたびに、強烈な衝撃が体の芯をつらぬいていく。

そのとき、

ビシッ!

空気を裂くような鋭い音が耳元をかすめた。

「もやい綱がきれたぞ。八重丸がながれる」

吹きすさぶ真っ白な海のなかに、八重丸の姿がみるみるかき消えていった。

すべての帆が下ろされた。風圧だけで権現丸は矢のように風下に向かって流されていく。

舵をまもる六人の舵子は血だらけである。あばれる舵棒で耳朶が切れ、血が顔をつたい、両肩は火のように赤く腫れあがっている。だが滝のようにふりそそぐ波涛が血糊などすぐ流してしまう。

「どうじゃ。舵はまだ保ちそうか?」

常蔵が若衆頭の三郎に舵の安全を大声で聞き返した。

「だめじゃ!  この波はつねではないわ」

若衆の中でも体が大きく、人望もあつい若衆頭の三郎が常蔵に喚きかえした。

「この三角波はいったい何じゃ。これは下り潮の本流にはいった証拠じゃ。すぐカスガ〈〉をぶち込んで、つかせ走りにして舵をまもった方がええ」
「よし。わしが舳先で綱をぶちこんでつかせ走りにするまで、何とか舵座をまもってれ。それから舵子全員に命綱を着けさせよ。慣れたものでもこれ以上はもういかん」

常蔵はこの嵐の峠はまだ先だと読んでいた。だから錨をゆわえたカスガ綱を二本、抵抗物として海中に投げこんで船を垂直に波にむかわせる。こうして「つかせ走り」に漂いながら舵をまもるのである。

投げ込まれたカスガ綱にひかれて権現丸は波に垂直に立った。

「だいたい七月に嵐がくるなんて、よほど業悪をやったものがおるんじゃ。厄落としのために金比羅さんでも那智権現さんでも、両手え合わせて一心に拝むことじゃ」

若衆の一人が喚いた。

「大西がきたとき、すぐもやい綱を切っておれば、こんな波にはあわなんだ」

張りつめていたものが急にゆるんで、若衆の心に不満と恐怖の入りまじった感情が、一気にこみ上げてくる。

さらに揺れは激しくなってくる。誰かが唱える念仏が風下に吹き流されていく。ツカセ綱を二本曳きながした権現丸は、地獄へ引きこまれる幽霊船のようだ。

「どうする気じゃい船頭さん。ふねは新造だから沈まんじゃろうが、このままではわしらは下り潮に乗せられて、地の果てまで流されるぞ。早いとこ手を打たんとえらいことになる」

みなの言いたいことは予測がつく。嵐に遇って進退きわまったときは、海のしきたりでオミクジを引いて神仏にお伺いをたてる。それがなにより重要だった。あとは泣いて船霊さんを拝むか、髷を切って海になげこむことしかない。

〈だがオミクジを引くにしろ、髷を切るにしろ、いずれにしてもこの自然の前では、無力なことに変わりはない 〉

そう思う常蔵は大声をはりあげた。

「おい三郎!  すぐ全員を船上に集めてくれい」

男たちがヤマの下に集まった。どの顔も不安のためにひきつって、潮水で眼がまっ赤に充血している。常蔵はヤマの上からぶつけるように言った。

「皆よく聞いてくれい!  この嵐の峠はまだまだ先じゃ。風も波もさらに力をつけてくる。いまは何をさておいても、帆柱を切り倒すことが先決じゃ」

「どうして帆柱じゃ!」

水主の一人が噛みつくように言いかえした。

「いまオミクジを引いて、金比羅さんにお願いすれば、嵐も一刻ののちには静まるかも知れねえ。そのときに帆柱がなければ、わしらは死ぬしかないのじゃ」

「そうじゃ。帆柱を切り倒す前に、まずあんたが髷を切ることよ。それにわしらも従えば、海の神さんはわしらの願いを聞きとどけてくれる」

いま常蔵の頭にあるのは空船の恐さだった。権現丸の吃水はたかく、海水の侵入こそ少ないようにみえるが、牙のような三角波をまともに受ければ、かるい空船はやすやすと横向きになり、そのとき船腹に波を喰らえば、千石船といえども横転する。

三郎が舵座から大声で怒鳴った。

「もとはといえば、こうなったのはみんな船頭さんの責任じゃ。あんたの船頭部屋には船霊さんがまつってない。それがこの嵐を招いたんじゃ。だがいまからでも遅うない。まずオミクジをひいて船霊さんに無事を祈ることじゃ。船頭さんも塩飽の人間なら、爺々さんの代からそうしてきたことは、よう知っとるじゃろうが」

常蔵は水主が口々に叫ぶのをきいていた。いまは言うことだけは言わせておいた方がいい。それで恐怖もうすれるし、内心ににくむ敵をもつことにより、心に均衡が保たれる。やがて喚きつかれた水主を前に、常蔵は大声で怒鳴りかえした。

「よう聞け、みなの衆。わしも船霊さんに祈って助かるものならそうする。じゃが権現丸のこの腰の軽さをよく見よ。から船ぞ。わしの見るところではもう半刻ももたんわい」

「だが帆柱を切り倒したら、十中八九もう陸はおがめん。船頭はそれを承知なのか」

このころの水主組織は危険に直面すると、いきなり会議制にかわった。若い水主も一人ひとりが、己の命運を決める発言権をもっていた。つまりそれだけ海難が多かったわけだ。

「わしはこんなところで死ぬ気は毛頭ない。だが帆柱をこのまま立てておいては、権現丸はまもなく転覆する。そうすればみな死ぬ。ならば汝らならどうする気じゃ」

帆柱を切り倒し、とめどない漂流をつづけて、九死に一生をえる僥倖に賭けようというのか……それとも常蔵になにか妙策があるとでもいうのか……。

「ならば船頭ならどうするんじゃ」

やけくそ気味に水主のひとりが叫んだ。

「帆柱のうえ半分を使うんじゃ」

「柱の半分だと」

「そうじゃ。いまならそれができる」

常蔵の意図するところはこうだった。帆柱を切りたおす前に、まず手斧で半分の高さに切り口をつけておく。そうすれば横倒しになったときの反動で、その個所から帆柱は真っ二つに折れる。そして暴れまわる重い下半分はすぐ海にながして、かるい上半分を回収する。今なら水主にも体力があり、この波浪の中でも何とか回収できるだろう。

「問題はこの揺れる船上で、誰が帆柱によじのぼるかじゃ 」

常蔵は男たちの顔を一人一人見わたした。船上に立っているだけで吹き倒されそうになるのに、狂気のように振れまわる帆柱にのぼる者がいるわけがない。

当然そのことを予期していた常蔵が、わしが行くと口をひらこうとしたとき、

「わしがいく」

頭にぬけるような声を出した者がいた。

若いカシキの小金次が命網をはずして、甲板を常蔵のもとへはい寄ってきた。

「船頭さん。この中でわしの身が一番かるい。わしがいくぞ」

帆柱のぼりは軽いほどいい。小金次は常蔵と眼があった瞬間、説明しがたいものが背筋を走りぬけたのをおぼえた。嵐の海に立ち向かおうとする常蔵の気迫に、小金次のおとこの根源が搏たれたのだ。

小柄な小金次は、濡れた刺子をぬぎ捨てると、褌一本の裸体になり、帆網のはじを四重五重に体にむすびつけ、手斧を褌のしりに差しこんだ。

「絶対に下を見てはいかんぞ。下を見たら気がすくんで上れなくなる」

若衆が帆網を轆轤でまき上げた。小金次は思わず小便をもらした。両手で帆柱をだきかかえて吹きすさぶ上空ににじりよっていく。手を離せば海面に叩きつけられる。まるで一日が過ぎたような長い時間に思われたとき、やっと目ざす高さに上りつめた。

「よし、そこじゃ!  そこに半分ほど切れ目を入れよ」

カーン、カーンと帆柱に切りこむ手斧のかたい響音が、船上の水主の耳にひびきわたった。それは権現丸が生きのびるための新しい秩序の響きにきこえた……。

二日目に嵐は去った。そのときから権現丸は生還への行動を開始した。
帆柱が根本から切り倒されたとき、海面との衝激でみごとに真っ二つに折れた。ふた抱えほどもある下半分を海に捨て、軽い上半分を船上にひきあげた。

二日後に帆柱が立った。高さはつねの半分以下でも、水主の目には跪きたいほど有り難いものにみえる。八反帆〈約三分の一〉を張るのが精一杯だったが、それでも追い風をうければ、確実に権現丸は前進した。

逆風になると間切る力はまったくなくなったが、カスガ流しで舵に損傷をうけなかった権現丸は、方位だけは    卯寅〈西北〉の一点に保ちつづけることができた。この方向に陸があると常蔵はきめていたからだ。

漂流がはじまってから、若衆もカシキも一切へだてがなくなった。帆柱をとり込むとき裂傷を負った弥太郎が死に、他の水主たちも不安で力が萎えてしまったが、若衆頭の三郎とカシキの小金次は生きる気力をふりしぼってよく働いた。

小金次は常蔵から舵の取り方を教わった。それは若い小金次にとっては、何事にもかえがたい楽しみとなった。自分の手で権現丸を陸に向かって走らせている。嵐の前では信じられないことだ。小金次は航海の知識を貧欲に吸収することで不安をわすれ、生への執着をさらにつよめていった。

常蔵はうつろな目をして座りこんでいる水主をみると、必ず肩を叩いてこういった。

「わしら船乗りが海で死んでは何もならん。ここで負けることは陸の人間に負けることなんじゃ。

乗りならここが一番の気張りどこじゃ」

海に命を晒して生きてきた常蔵は、強烈な生への哲学をもっていた。

「おい小金次よ。とき測りをやってみよ」

常蔵は明日へ希望をもたせる意味で、小さな作業をそれぞれに分担させ、それを継続的に行わせた。ある者には綱のヨリを巻きもどさせ、さらに太いものにヨリ込む作業を命じた。航海上はなんの意味もないことだが、一日四、五寸ずつヨリあがる太綱は、明日への希望をよみがえらせ、生への執着を失わせない意味合いがこめられている。

小金次には「日付け」と「刻測り」が命ぜられた。日付けは、船板に小刀で毎日々々日付を彫り込む。日がたつにつれて、それが生存の証しだと思えるようになり、小金次は朝いちばんに日を彫り込むと、水主一人ひとりにそれを告げてまわった。

刻測りは、昼は太陽、夜は北斗七星をつかって時間をはかる役目だった。

たとえば北斗七星の一点の貧狼星〈ヅ―ベ〉と、七点の破軍星〈ベネトナッシュ〉を結んだ線が、北極星とのなす角度で時間を知る方法だった。この測定法は大まかな時を知るには効果があり、小金次は夢中になって夜空を見上げて時をすごした。

だが何より権現丸の水主を力づけたのは、船艙に積みこまれた「水樽」だった。

人間にとって飢餓より恐ろしいものは渇きだ。水さえあれば食わずとも生きのびる力は与えられる。水樽を管理する役は、若衆をたばねる三郎にいいつけられた。

「この水樽を積みこんできたということは、わしらと権現丸をまだ海神さんがみはなさん証拠ゃ。だから気をおとさずに頑張れ」

三郎は柄杓でいのちの水を配るたび、必ずそう言ってはげました。

食料は日のばしに喰いつないできた。だが沿海航海しかしない千石船の積みこむ食料は多くない。米と干飯と餅、塩をきかした魚の干物、味噌、醤油、それに日もちする大根、午蒡、ねぎなどの野菜だった。どう喰いのばしても限度がある。

塩飽島で極貧の少年時代を送った常蔵は、日々の生きる糧を得るための、小魚の獲りかたに習熟していた。島でつかった笹竹のかわりに帆柱をつつんだ檜の外皮をたて割りにし、シュロ綱を器用にほぐして、丸い笊を編みあげた。その中に海藻をひろい集めて小魚の居心地をよくしてやり、海中に投じる。頃を見はからって命綱を腰にまいた小金次が海にとびこむ。器用に手づかみにしてくる数尾の小鯵をみて、

「おい小金次。奴ァ、漁師にでもなった方がよかったかも知れん。その腕ならすぐ蔵がたつわい」

風が凪ぎ、暗いしずかな夜には飛び魚をとった。船上に帆の半分をタテに張り、その両側で簀火をもやす。飛び魚が燈火めがけて飛び込んでくる。帆に激突して、はねまわる魚を火で焙る。数日間の保存食になった。
だが海のめぐみは気まぐれだ。風の具合、潮のかげんで、魚の寄りつかない日も多かった。食料も喰いつくし、漁もなかった十日すぎに、常蔵が船頭部屋から莚の小包を持ちだしてきた。

常蔵がつつみから取りだしたのは鰹節であった。それは船霊さまをまつる神棚に置いてあった常蔵の私物であった。白子をふいた鰹節を一本ずつ水主に手わたしながら、

「これは時間をかけて、ゆっくり味をしゃぶり出すんじゃ。そうすれば飢えもいっときはしのげる」

カビ臭いかたまりは石のように堅かったが、しばらくすると口中に得もいわれぬ味がしみ出してきた。常蔵の無信心ぶりを口ぎたなく罵った三郎が、

「この方が船霊さまやオミクジより、よっぽどご利益があるわい」

鰹節をしゃぶりながら子供のようにポロポロと大粒の泪をながした。
漂流をはじめて十五日すぎに、つづけて小さな嵐に二度遭あった。

最初の嵐のとき、年かさの善兵衛が帆綱にうたれて落水した。さいわい命綱に助けられて船上にひき上げられたが、弱った体に海水をたっぷり飲まされた。

「なぜわしらだけ、こんなたいもない目に遭わねばならんのじゃ。ひもじくっても、田分けものといわれても、島にしがみついておればよかったんじゃ」

艫屋形にとじこもったきり、泣きごとをくり返していた善兵衛が、二度目の嵐で船がはげしく傾ぎだしたとき艫屋形から飛びだし、大声でわめきながら夕暮れの海に身をなげて死んだ。

それからも無慈悲な風波の魔手は、つぎつぎ弱った水主から気力を奪いとっていった。

「黒潮川につれられて、生きて還ったものはほとんどないんじゃ……わしらはこのまま骨になって、地の果てまで流されていくわ……」

権現丸は伊豆諸島のどの島にもぶつからず、さらに南の青ヶ島の沖合いにむけて漂っていた。太平洋で漂流をはじめると、大半が黒潮にのり、千島、カムチャッカにむけて流される。そして房総沖にはハワイ諸島にながれる支流があり、半年から一年かけて西流する赤道海流にのり、フィリッピンや中国南岸へながれついた難船の記録もある。

帆柱もなく、舵のこわれた漂流船は、そうして潮にながされて餓死か狂死の運命をたどったのであるが、小さいながらも帆を張り、潮流に流されまいと闘っていた権現丸は、少なくとも伊豆諸島の最南端から、北東へつれていかれる運命には抗していた。

そんなとき夕陽にかがやく甲板で、常蔵がぽつりとつぶやいた。

「わしはいちど異人船にのったことがある」

「異人船じゃと」

江戸期において異人船との接触は、たとえ不可抗力の遭難であっても、重罪人にあつかいをうけた。だれもが口をとざす事実を、常蔵はすらりと口にした。

徳川家康は《五百石積み以上の軍船の建造禁止     》を西国大名に発令したあと、《帆柱は一本    》《甲板の水密は相ならず   》と船の構造を規制する愚挙にでて、室町期からマラッカ海峡までおしだしていた日本人の海洋民族の血をころしてしまった。

「わしは嵐でふき流されたとき、異人船にあって腰がぬけるほどおどろいた。なにしろそれは城のような大きさじゃった。船腹は達磨のように太っているし、帆柱は三本ある。これがおなじ人間の乗りものかとおもった」

常蔵のかおが夕陽にあかくそまっている。

「わしはその船で異国行きを願いでた」

身振り手ぶりをまじえた常蔵の異人相手の奮闘もむなしく、水と食料があたえられて、やがてあらわれた小島に置いていかれた。

「わしは遠ざかる異人船をみつめて、つくづく思った。船というものはああでなければならぬ。嵐にあっても平気で、どんな風でもやすやすと間切れる……それをあの権現めが……権現めが、わしら船乗りに手かせ足かせをはめおって」

常蔵は家康のことを権現とよびすてにした。

二十五日目に島影らしいものを発見した。

「雲か……」

ヤマにすわり込んだまま表〈航海長〉の佐助が死んだ。

小金次は泣きながら痩せほそった佐助の亡骸を海に投げこんだ。何ごとにつけ小金次を殴りとばした佐助の水音が、たまらなく空しくわびしいものに聞こえてきた。

生きのびるために食い物をとるあらゆる方法が考えられた。危険にみちて豪快なのがサメ獲りだった。

「まず帆桁をつかって木檻をつくるんじゃ」

丸太を帆綱でしばり、人間ひとりが入れる木檻がつくられた。

「船刀をくれ」

常蔵は帆綱をきる船刀で腕を傷つけると、木檻に入って船べりから海中に沈めさせた。ながれる血の匂いでサメをおびきよせるのである。

甲板では三郎が手にモリをもって身構える。

「きたぞ。サメじゃ    」

できるかぎり近づけて鯨獲りのようにモリをうちこむ。モリが外れれば巨大なサメの口で木檻が破られる危険はあるが、一尾仕留めれば十日間は食いつなげる。

常蔵のつよい意志にささえられた権現丸に、別の生きぬこうとする生命力が宿った。それは三毛猫の雌のはなに三匹の子猫が生まれたことだった。夜とびこんできた飛び魚を、小金次たちに先んじて喰ってしまうし、小金次が狙いはじめた鼠を、得意技で独占して三匹の子猫のために生命力をみなぎらせた。

鼠の鳴き声も近ごろは聞かなくなった。どんなに朝早く起きだしても、船上に飛び魚がはねまわっていることは絶対にない。さすがの常蔵もこの事件だけは、苦笑してながめるしかなかった。

「わしらもせいぜいはなに負けぬよう、気張らねばいかん」

そういって卯寅の方向をじっと見つめるのが常蔵の日課になった。

小金次は三匹の子猫を自分の藁の中にうつしかえて、かいがいしく世話をした。そして七つ刻〈午後四時〉を一日の最後にはかり、一日を生きのびた喜びを、子猫と一緒に船板にきざみこむ。

「鳥羽をでてから五十六日がすぎた。だがまだ水はある。絶対に死なずに帰ってやる」
常蔵のつよい意志にみちびかれて、権現丸はついに卯寅の方向に青ヶ島〈伊豆諸島の最南端、八丈島の南方沖四十キロ南にある〉を発見した。

帆柱の下半分と水主四人を喪い、かわりに猫三匹、成長したカシキの小金次、それに痛手をおった男たちをひきつれて、常蔵は早朝の八丈島へ入港をはたした。

鳥羽を発ってから六十二日    このころの和船としては、希有ともいえる自力の生還であった。

[完]

角川書店「小説王」1994年7月号掲載

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