故二宮隆雄君を偲ぶ

もう20年近く前になるだろうか。ある日、突然 君は康子夫人共々、拙宅を訪ねてきた。

「立教でヨットをやっていた二宮です。このたび当地に住むことになりました。」
君と特に面識があったわけではない。お互いにヨット・レーサーだったが、学校も活躍していた時期もそれぞれ異なっていた。

ただスナイプ級の世界選手権で、日本人として初めて優勝した男、というだけでその名を知っていたのである。当時の日本のヨット界のレベルを知るものにとって、それはまさに驚嘆に値することであり、私には奇跡としか思えなかったのである。

というのは君が世界の頂点に立つ数年前、私自身が同じ世界の厚い壁に手も足も出ず、ものの見事に打ちのめされたからだ。「この差を詰めるのは容易なことではない。」レベルの差を身をもって感じた私は、ヨット界からの引退をさっさと決意する。
世界に挑戦し、夢破れてドロップアウトした私。一方シンデレラ・ボーイとして頂点にたった君はヨット界に残ることになる。レースの結果ひとつが、その後の人生を分けてしまうのだ。
「オレが日本のヨット界をリードしてみせる。」若くしてトップセーラーの地位を得た君が、そう思ったとしても決して不思議ではない。私も逆の立場にあったなら、同じ道を歩んでいたかもしれないのだ。
後日知ったことだが、その後の君の人生が壮絶な戦いの連続であったと聞く。君への評価も毀誉褒貶さまざまであったことも否定できない。

だが、私を訪ねてくれたときの君は輝いていた。「小説現代」新人賞をとったばかりの気鋭の作家として、第二の人生を歩み始めたときだった。
その作品「疾風伝」には、二宮隆雄という男の海にかける想いが凝縮されていた。文章も構成もかなり荒っぽいが、海のシーンでの描写は、自らが舵を握った人間でないと表現しえない迫真的なものだった。
その後執筆された数多くの作品も各々面白いテーマに挑戦し、円熟味を増してはいるが、私にとっては「疾風伝」の中に君の生きざまのすべてをみる想いがする。
多くの作家が海をテーマに描いているが、これほど迫力ある作品をほかには知らない。

五ヶ所湾を目前に控えた相賀浦で、君の後半の人生はスタートした。執筆活動の傍ら、若いセーラーたちが集い始め、再びレーサーとして歩み始めることになる。
ちょうどその頃、私の長女・千賀子(後の通称チカタマ)が突如「ヨットをやりたい。」と言いだしたのである。そこで君に相談をもちかけた処、こころよく「お預かりしましょう。」
私塾に我が娘を預けたようなものだが、若かりし頃レーサーとしての夢を捨てた男と、かつてのチャンピオンとしてヨット界に身を投じ、泥沼からはい上がった男の奇妙な関係がスタートする。

決してエリートとは言えない雑草のような若いセーラー達が週末になると相賀浦に集まり、中古のJ-24で、まさしく楽しみながら各地のレースにも参戦することとなる。
いつしか彼らから「師匠」と呼ばれるようになる。それはヨットの指導者というより、波瀾万丈の半生をしたたかに生き抜いてきた希代の天災セーラーが、何ひとつ飾ることなく、君自身の人間性を若者にぶつける、破天荒なものだった。
正直の処、世間知らずの一女高生には、かなり刺激が強すぎるものでもあったが、受験勉強に明けくれる平凡な高校生活にくらべれば充実した日々だったと思う。
その後、大学へと進学し、結婚・出産・育児と歳月を重ねることになるが、親のひいき目ばかりでなく、順調にたくましく、それなりに成長しているように思う。その土台を築いてくれたのが、相賀浦での3年間であった。

“師匠”ありがとう。“金太”ありがとう。

日本のヨット界も世界に伍して、上位争いができるところまで到達したが、それも君が泥にまみれながら、心ない陰口をたたかれながら、じっと耐え忍んできた帰結だろう。
「疾風伝」それは君の代表作であると同時にまさに君の生きてきた人生、そのものである。いささか早すぎた死にはちがいないが、疾風の如く、あくまでも野人として自らの信じる道を走りぬけた君にはふさわしい一生であったと信じてやまない。

「好漢よ、安らかに眠りたまえ。」

若松 徳生様

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