「お父つぁん。大丈夫かえ。これから江戸行きの船に乗るから、しばらくの辛抱です」

 

父親より体の大きい娘のお光が、木更津の船着き場にうずくまる甚兵衛を背負った。

「すまねえなお光。こんなだらしのねえ体になってしまって……」

江戸四ツ谷の海苔問屋で、五十六歳の近江屋甚兵衛は、船の甲板に敷かれた布団の上に降ろされて、痛そうに腰をさすった。

甚兵衛は十一歳で浅草海苔問屋に丁稚奉公し、行く末は海苔問屋の大店の主人になりたいという夢をもち、朝から夜まで身を粉にして働き、やっと三十七歳で暖簾分けをさせてもらい四ツ谷に近江屋を店開きした。三年後にお光が生まれた甚兵衛は相模、駿河と足をのばして、そのころ江戸で流行りだした海苔巻き寿司の作り方を人々に教え、未開の販路を切り開いて海苔問屋として成功をおさめた。

だが海苔問屋として大をなすには、特約した自分だけの海苔場を持たねばならない。そこで五十六歳になった甚兵衛はこう心に決めた。

「わしの一存で支配できる海苔場を、江戸以外で作りたい」

浅草はむろんのこと、品川浦と大森浦の浅草海苔の採取場も、日本橋の大問屋に独占されている。店を番頭にまかせた甚兵衛は上総の浦々を歩いて、海苔養殖の夢を追いはじめた。

まだ江戸湾以外で、海苔が採れるとは思わなかった頃である。江戸の海苔問屋仲間は、甚兵衛の無謀さを嘲笑した。

「近江屋が大それた投機をはじめた。いずれしくじって身上を潰すだろう」

「そうだ。江戸前の海だからこそ浅草海苔は育つ。上総の田舎で馬鹿なことを考えねえほうがいい」

甚兵衛を待ちうける上総の漁師の反応も冷たかった。海苔を採る方法は、浅い海岸に粗朶という先端に枝木のある棒を建込み、二~三ケ月潮の流れにまかせて、海苔が粗朶に付いて育つのを待つ。

それは漁師にとって海を荒らされることだった。

「村の大事な漁場に、棒杭なんぞをおっ立てられては飯の食いあげじゃ。馬鹿なことはこの浜では絶対にやらせねえ」

上総の田舎の漁師は、それでなくても江戸者の話は、一応も二応も疑ってかかる頑迷さを持っていた。浜一面に海苔粗朶を建込められては、見ただけで海が荒らされたと思う。村の二、三人が反対すれば、村の総意として海苔場を作らせてもらえない。

「そうではない。海苔づくりで海は荒れぬし、漁の少ない冬場に海苔が採れれば、漁師の暮らしむきがよくなるんじゃ」

甚兵衛は貧しかった品川浦、大森浦の漁師が、冬の強い北西風が吹き込む冬場に漁が少なくなるために、浅草で海苔養殖に成功した漁師を見習って、海苔をつくって豊かになった話を聞かせるが、上総の漁師は新しいことにはまるで耳を貸さない。

海の漁は水ものである。豊漁がつづくことがあれば、小魚一匹網に入らないこともある。

少しでも村の暮らしを安定したいと思う名主もいて、甚兵衛の話を信じて、秋口に浜に海苔粗朶を建込ましてくれる村もあった。

だが江戸湾のように粗朶に海苔が付かなかった。甚兵衛は冷たい初冬の海に毎日入り、どうして海苔が付着しないのか、寒さに震えながら調べた。海苔粗朶の建込みも、浅草や品川と同じである。海の深さも変わらない。潮の流れも強くなく弱くなく、海の様子も江戸と同じである。

「どうしたことじゃ」

甚兵衛は冷えきった体で考えた。海苔はなにかの具合で、浅草沖や品川沖の江戸湾でしか採れないものなのか。だが原因はまるでわからない……。

冬が終われば海苔づくりの季節も終わる。傷心の甚兵衛は海苔粗朶を引き抜き、また来年も頼みますと名主の家に挨拶に行ったとき、顔を荒げた漁師が怒鳴り込んできた。

「名主さん。あんたの話を信じて、江戸者に海苔の棒杭を浜におっ立てさせたが、そのせいで浜が荒れて、この春は貝がまるで採れやしねえ。どうしてくれるんだ」

海苔粗朶の建込みで、貝が採れなくならないことは、江戸の漁師の話でわかっていた。だが甚兵衛は頭をさげ、その場で賠償の銭を支払った。こういう苦労が五年つづき、寒い海で体を冷やした甚兵衛は下半身が痺れ、二年前から手伝いにきた娘のお光に背負われて、江戸に帰ることになったのである。

「お父つぁん。もう海苔場づくりはあきらめますか」

遠ざかる木更津を見ながらお光がいった。お光は太った母に似て、目方が十八貫(約六七・五キロ)あったが、丸顔で黒目勝ちの目は大きく、笑うと八重歯がこぼれ、四ツ谷小町といわれる美人であった。だが性格は甚兵衛の意志の強さを、その大きな体に受け継いでいた。

「いいや。やめねえ」

甚兵衛が腰の痛みをこらえていった。

「わしはどうしても自分の海苔場を持ちたいんじゃ。歩けぬようになったくらいで、海苔づくりをあきらめぬ」

「ですが上総の浦々では貝が採れぬ、網が曳けぬと漁師の方に怒鳴り込まれ、海苔粗朶を建込ましてもらえる浜がなくなりました」

「いや。探せばまだある。わしの俳諧師匠でもある八朶黒松先生のところに、上総の名主がいると聞いたことがある。先生に尋ねれば所在はわかるじゃろう」

甚兵衛の楽しみは俳諧であった。師の八朶黒松は江戸で流行っている海苔巻き寿司が大好物で、それにあやかって「八本の粗朶を建込み、黒々とした海苔をつくりたい」と八朶黒松という俳名に変えたほどである。

江戸に帰ったお光は大八車に甚兵衛を乗せて、八朶黒松の屋敷を訪れた。

「その姿はどうしたのじゃ」

お光に背負われて玄関を入ってきた甚兵衛を見て黒松は驚いたが、甚兵衛の上総の苦労話にうなずいていった。

「その男の名前は鳥海酔車じゃ。上総国長須賀村の名主で人柄もよく、近村の顔役を説得するにはうってつけかも知れぬ。すぐ紹介状を書くから訪ねてみるがよい」

黒松は筆を持ったが、手を止めて甚兵衛を見た。

「だがその体では、海苔場はつくれんじゃろう」

「そのとおりじゃが、わしの代わりにお光が海に入ってくれる。心配ない」

「そうか。お光さんなら体は丈夫じゃな」

お光は生まれたときから浅草海苔に囲まれて育っている。山から伐ってきた枝木を束ねる粗朶の作り方、粗朶の建込み場所、海苔の粗朶への付き方、採集法も知っている。

海苔の養殖がはじまったのは浅草である。浅草沖の海には大川(隅田川)の流れがまじり、生簀に海苔が付くことが多かった。

生海苔を手にした紙漉き屋が、「これを紙のように薄く干せぬものか」と考えた。

浅草は海苔が作られる前は、和紙の再生所として知られていた。自然に生簀に付着した海苔を集めて、和紙の紙漉き法を真似て、海苔を作ったのが始まりである。

製法は海苔を薄刃包丁で細かく刻んで、四斗樽で水を混ぜ、和紙作りの要領で四角い木枠の葦簀に流し込み、天日で干して作る。品川浦や大森浦の海苔も、日本橋の海苔問屋が買い付け、これらも浅草海苔として諸国に売りさばかれるようになった。


お光は父親を背負ってふたたび木更津行きの船に乗った。

甚兵衛は海苔問屋として、すでに成功をおさめている。商売を番頭にまかせて、好きな俳諧をひねって楽に暮らしていけるのに、どうしても江戸以外に海苔場をつくりたい夢を捨てなかい。海苔づくりは上総の漁民の暮らしを安定させることであり、その夢をお光も理解していた。

お光と甚兵衛は長須賀村で鳥海酔車と会った。酔車の本名は橋本健左衛門といい、近郷では学識のある人物として知られ、長須賀村での信望も厚かった。

お光に背負われてきた甚兵衛の話を聞き終わった酔車は、

「おまかせ下され。海苔が採れるかは別として、水もの仕事の漁師たちのために、冬場に安定した稼ぎが得られる甚兵衛さんの気持ちが気に入りました。及ばすながら一骨折りましょう」

それから酔車は近傍ら村々を歩き、冬の暮らしが楽になると漁師を説得した。暮らしが楽になるならやってもよいとうなずく漁師もいたが、中には甚兵衛の他村での噂を耳にした漁師もいて、酔車にこう忠告した。

「健左衛門さんはそういいなさるが、大堀浦の権兵衛に聞いた話では、その親娘が海苔の棒杭で浜を荒らしたために、浅蜊貝がほとんど採れなかったそうじゃ」

「いやそうではない。江戸の浅草や品川では、海苔の棒を立てても、浅蜊も蛤も変わらず採れておる。その権兵衛とやらの話は、たまたま浅蜊が採れぬ年と重なっただけじゃ」

田舎の漁師は、ともすれば衆愚の声に流されやすいものである。そうした噂話を一つ一つ否定して、漁民の応諾を得た酔車は、自分の屋敷に二人を逗留させて、海苔場探しを始めさせた。

お光は甚兵衛を背負い、近傍の海辺を歩きまわり、海苔づくりに適している場所を探した。それは甚兵衛の長年の勘に頼るしかない仕事だった。お光に背負われた甚兵衛は、砂浜の形を眺め、潮の流れ、満ち引きの状態を克明に書きつけ、お光が手ですくった海水を口にふくみ、海苔が採れそうな海岸を探して歩いた。

「お父つぁん。この浜はよいように思えますが、どうでしょう」

「いいや。だめじゃ」

お光の背で甚兵衛が首を振る。

「一見したところお前にはわからぬが、海がすぐ深くなって潮の流れが強すぎる。こういう海では海苔が育たぬ」

酔車の屋敷に寄寓したお光と甚兵衛は、夏の終わりまでに富津岬の根元にある海岸に、海苔が付きそうな場所を一ケ所見つけた。

海苔粗朶の建込みは、九月中に終えなければならない。甚兵衛は山から粗朶の伐り出しに、一日一人百文の日当を気前よく払い、村民の協力を得て、どうにか粗朶の建込みを終えた。

下半身が麻痺したままの甚兵衛だが、海苔の付き方が気になって仕方がない。

「お光。明るくなったから、海に連れてってくれ」

お光に背負われた甚兵衛は、秋風が冷たさをました早朝の海に入り、海苔の付き具合を調べて夕方まで帰らない。そんな二人を漁師は冷たい目で見ているが、何人かの若い漁師はそうではなかった。

村の若者が共同生活をする「若衆宿」の若衆頭の一太郎が協力を申し出た。

「わしはこんな貧しい暮らしはいやじゃ。親父は江戸者を嫌って、二人がしくじるのを待っておるが、わしは海苔が採れて楽になればええと思っておる。なにか手伝わせてくれ」

厚い胸板の一太郎は泳ぎが得意で、海士として海に潜って貝を採り、真黒に日焼けした若者である。

一太郎はお光に代わって、甚兵衛を世話したり、海に潜って海底の様子も調べてくれた。

「一太郎さん。海苔巻き寿司を食べたことはありますか」

「海苔なんて見たこともねえ。だからそんなものを食ったこともねえ」

「お礼といってはなんですが、私が海苔巻き寿司を作りますから、皆様を連れて食べにきて下さい」

お光は酢飯を作り干瓢を甘く煮て、海苔巻き寿司を巻いて一太郎たちに食べさせた。

「こんなうめえものはじめて食った。わしらは海苔を絶対に作らねばならんぞ」

一太郎が日焼けした顔で笑った。

だが十一月になっても、海苔の付きは芳しくなかった。焦った甚兵衛は、その日も早朝からお光に背負われて海に入った。粗朶に付着して育っている海苔はわずかで、これでは黒々とした海苔は育たない。

「なにが悪いんじゃ。潮のめぐりも悪うはないし・・・・・・」

朝から甚兵衛を背負って海に入っているお光は、寒さと疲れで足がよろめいた。

「あっ!」

甚兵衛を背負ったお光は海中に倒れた。全身がずぶ濡れになって立ち上がったお光は、「お父つぁん。すみません。すぐ帰って温かくしますから、もう少し辛抱して下さい」

だが体が海水で濡れねずみになった甚兵衛は、その晩から高熱をだし、三日三晩うわごとをいって息を引きとった。

悲しみにくれたお光を一太郎が慰めた。

「お光さん。死んだ甚兵衛さんの望みは、この上総の海に海苔場をつくることだ。この冬はしくじったようだが、来年のために海の中を調べたがよい」

一太郎は冬の海に潜って、海底の様子や潮の流れを調べはじめた。一太郎は海士である。

海に潜ることが仕事であるが、冬の海の冷たさは一太郎の身を凍えさす。だが父親の志を継ごうとするお光の一途さに魅かれた一太郎は、唇をまっ青にして海に潜った。

「お光さん。どうやら小糸川の河口に近い浜が礁や棒杭に海苔の芽が付いておるぞ」

「そうですか」

お光は一太郎が海に潜って調べているあいだ、浜で焚火をして一太郎を待っていた。一太郎の潜水が、海苔づくりに役立つかどうかわからない。だが体を凍えさせて海底を調べてくれる逞しい一太郎に好意をいだいた。お光は海から上がって寒さに震える一太郎の体

を手拭いでこすってやり、焚火で体を温めさせた。二人はまもなく男と女の関係になった。

その年の海苔養殖は失敗に終わったが、お光は甚兵衛の遺志を継いで、海苔づくりに挑む覚悟を固めた。

だが江戸湾とくらべて、上総の海のどこが悪いのかわからない。それを突きとめなければ今年の二の舞いになる。

上総で海苔づくりを成功させたい一太郎がこういった。

「お光さん。おれは海苔づくりのことはよくわからねえが、上総の海中のことなら誰よりも知っておる。そこで考えたんだが、江戸の浅草と品川の海に潜って、どこが違うか調べてみたいんだ」

「それはいいかも知れないわ。お父つぁんも気が急くあまり、上総の海ばかり調べていたけど、江戸の海を調べれば、なにかつかめるかも知れません」

お光は一太郎と江戸に帰り、海苔がよく付く浅草、品川、大森の海に潜って、海の様子を調べはじめた。

「どうやら海の底が違うようだ」

一太郎が体を拭きながらいった。

「どこが違いますか」

「上総の海はほとんどが砂地だが、品川浦と大森浦は泥まじりの砂場が多い」

「浅草の海はどうですか」

「浅草は品川浦ほど泥は多くないが、海の水が甘いような気がする」

「甘い? それはどういうことですか」

「うまく説明できねえが、つまり海の水が甘いように感じるんだ」

「そういえばお父つぁんも、そのようなことを言いました」

「上総でも塩の甘い海が一ケ所あった……たしか小糸川の河口だったような気がする」

「一太郎さん。それは大川の水のせいではないでしょうか。大川の水が海水と混じって、塩気が少なく感じるとか」

「そうだ。それにちがいない。だから小糸川河口の礁に、海苔の芽がいちばん多く付いていたんだ。それに砂に泥も混じっていたし」

「それなら今年は小糸川河口に海苔粗朶を建込みましょう」

「それがいいかも知れん。すぐに帰って粗朶作りをはじめよう」


木更津に着いたお光と一太郎は、酔車の屋敷を訪れて、大川の水が流れ込む浅草の海といちばん似ているのが、小糸川河口だと興奮気味に話した。

「だから今年は小糸川河口に、海苔粗朶を建込みたいのです」

お光の話を聞いていた酔車は、

「なるほど。話はよくわかったが、小糸川河口は無理かも知れぬ」

と顔を曇らせた。

「なぜでございます」

「あそこは鴨猟場でな、冬は漁師の口すすぎの稼ぎになるんじゃ」

牛や馬を食べない日本人も、鴨や雉の鳥類は食べた。そのころの鴨猟は、萱の若穂で作った縄に油を塗り、それを鴨が集まる海に縦横に張りめぐらして、海面におりた鴨の足が縄に引っかかり、そこを小舟で捕らえるという原始的な手法であった。

鴨猟をする海面は広さが必要であった。そこへ海苔粗朶を建込めば、鴨猟の邪魔になる。

しかも鴨の飛来する時期と、海苔ができる時期は同じであると酔車はいった。

「わけのわからぬ海苔づくりのために、永年やってきた鴨猟が止められるかと、村の衆はいうはずじゃ」

意気込んだお光は肩を落とした。いままでの調べからすれば、小糸川河口以外の海で海苔をつくろうとすれば、失敗に終わる可能性が高かった。

上総での海苔づくりをあきらめて、海苔問屋の仕事だけに専念するか。あるいは小糸川河口以外の海苔場を、一から探して歩くか……。

太っているお光は一太郎にはわからなかったが、子ができて四ケ月になっていた。海苔場探しで忙しくてそのことを話していなかったが、お光も一太郎も夫婦になる気でいた。

お光は一太郎に身籠ったことを初めて告げ、自分の覚悟を話した。

「一太郎さん。私が近江屋を破産させて身一つになっても、私を妻として養ってもらえますか」

とつぜんの話に一太郎は戸惑ったが、

「近江屋がどうであろうと、わしはお光さんを嫁にする気に変わりはない。もし近江屋が潰れても、海士の仕事で母子二人を貧しくと食わすことはできる。お光さんにその覚悟があるなら、二人で甚兵衛さんの夢をかなえたい」

お光は嬉しそうにうなずいてから酔車にいった。

「建左衛門さま。お願いがございます」

「なんじゃ」

「もし冬場の鴨猟を止めるとすれば、村の方にどれくらいのお金を払えばよいのでしょう」

「はて。そういわれてもとよくわからぬが、村の肝煎に尋ねればわかります」

「私が小糸川の河口に海苔粗朶を建込むとして、この一年だけその猟場を買い取らせてもらい、私のわがままを通させてもらえますか」

お光の話に真剣さを感じた酔車の顔が真面目になった。

「ということは鴨猟から上がる村人の稼ぎを、お光さんがすべて肩替わりして、支払おうということですな」

「はい。それはなみなみならぬお金だと思いますが、たとえしくじって近江屋の身上が傾いても、それを父は許してくれるでしょう」

お光は一太郎と二人で父の甚兵衛の夢を追うことが、娘の自分が果たす役割だと話し、そのためには近江屋の身上を賭けるといった。

小糸川河口にある人見村は、家数が三十三軒で、村高三百六十石の小さな寒村である。村は旗本知行と幕府直領の天領に分かれており、それぞれを二人の名主が束ねていた。

酔車の仲立ちによって二人の名主と話がつき、小糸川河口の鴨猟は、近江屋が補償金を支払うことによって、とりあえず一年間の中止が決められた。

後には退けないお光と一太郎は、粗朶作りに懸命になり、九月初めに海苔粗朶を、小糸川河口一面に建込んだ。

一息つくと人見村の秋祭りがきた。笛の音につられて二人は鎮守の杜に詣でて、海苔の芽が付き、黒々と育つことを祈願した。

そんなとき四ツ谷の店をまかせてある番頭から書状が届いた。

「なにごとでしょう」

お光が書状に目を通すと、今年は江戸の海水がいつもより温かく、浅草も品川浦も大森浦も、すべての海苔場で例年より粗朶が沖に建込んであると書いてあった。

「よいことを知らせてくれました。まだ間に合います。思い切って沖に粗朶を建込み直しましょう」

早目に海苔粗朶を建込んだことが幸いして、沖合いに移し直しても、まだ十分に間にあった。それからお光と一太郎は、祈るような気持ちで、毎日粗朶を見てまわった。

一ト月がすぎたころ鴨が河口に飛来した。北西風が冷たさをまし、海に浮いた鴨は海苔粗朶の風下に群れをなして浮き、強い北西風を避け浮かんでいる。

お光はほほえましい光景に笑みを浮かべた。この海苔場が成功すれば、自分もまもなく子を産み、鴨の一家のように子を育てる。そうして毎年この鴨の群れを、海苔粗朶のまじかに見て、一太郎と子供と暮らせる。……そう思うとお光は、鴨が飛来したこの海苔場が、かならず成功する確信のようなものを感じた。

それから数日後に、お光と一太郎は粗朶の枝々に伸びはじめた海苔の芽を、はっきりと

見た。それは幻ではなかった。茶褐色の透きとおるような、正真正銘の海苔の芽であった。

「ついに海苔が付きました。まちがいない海苔の芽です」

他の粗朶を見ても、その着生に厚薄はあったが、まちがいなく海苔の芽が付いている。二人は抱き合って喜びをわかちあった。


文政六年(一八二三)十二月。上総の海で海苔を摘む日がきた。海苔摘みには人手が要る。人見村の女たちが雇われ、黒々とした海苔が、女たちの手で摘み取られて笊に入れられた。

お光は浜で大忙しとなった。初めて海苔をつくる人見村の人々に、海苔づくりを一から教えねばならない。

摘み取られた海苔を、まず海水できれいに洗い、一晩海水の中に寝かせておく。翌朝十分に水を切り、それを薄刃包丁で細かく切り刻み、四斗桶に淡水を入れて、かきまわして水海苔にする。

仕上げは葦簀をひいた四角の木枠の上に、柄杓で水海苔をすくって流し込み、水がひいたら干し場で干す。

「干し場は風の当らない、日当りのいい場所を選んで下さい」

小糸川河口の日当りのいい場所に、黒々とした海苔が一面に干された。江戸以外の地で、

初めて海苔がつくられた日である。

お光は大きくなったお腹をさすり、かわいい八重歯を見せて一太郎に笑いかけた。

「私の父が望んだことは、海苔問屋として自分の手になる海苔場が欲しかったのです。ですからこの海苔場は、人見村の方々に持ってもらい、私たちは元の海苔問屋に戻りましょう。この海苔なら浅草海苔に負けません」

翌年は人見村の村民二十三家族が、海苔づくりに名乗りを上げ、苦しかった村の経済がうるおいはじめた。

そうなれば、いままで貝が採れぬなどと邪魔をしてきた近村の漁師たちも、

「あのときは、なんとも申し訳のないことで……」

海苔場づくりに反対してた漁師が頭を下げてきて、隣村の青木村、西川村、新井村と、その技法が伝えられていった。

お光は下手な字あまりの俳句をつくり、父の仏壇にささげて、海苔場づくりの成功を報告した。

上総の海 見わたすかぎり 海苔場かな。

それからお光は、一太郎と江戸で海苔問屋の商いに専心したが、小糸川河口に一柵だけ自分たちの海苔場を残し、そこに子を連れて鴨を眺めるのを楽しみとした。


 

[完]

実業之日本社 「週刊小説」1998年3月号掲載

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