アフリカ大陸とオ―ストラリア間にひろがるインド洋は、赤道に近づけば軽風海域もあるが、南緯三、四十度の海は荒れることが多い。

インド洋の孤島・アムステルダム島近海を帆走中の世界一周レ―スのヨット「イ―グル号」から落水した瞬間、井留間学の脳裏をケイプタウンの赤茶けた岩山がよぎった。それは最後に目にした陸地の光景である。

ケイプタウンを後にして九日目の早暁だった。四時間交替のワッチで昼夜をとわずに帆走するイ―グル号のクル―にとって、蓄積された疲労がピ―クに達するころである。深夜からワッチに立っていた井留間は、交替直前にセイルに足を滑らせて落水した。

暁闇のインド洋に体が呑まれたとき、井留間は、

「俺はこのまま死ぬ」と思った。

世界一苛酷な〈ウィッド・ブレッド・世界一周レ―ス〉のケ―プタウンからシドニ―までの第二レグは、猛烈なサイクロンがヨットを襲い、いままで二十人を超すクル―の命が喪われた危険なコ―スである。

その晩も南西風が繁吹いていた。イ―グル号は突き上げてくる三角波に激しく揺れ傾いだ。クル―は自分の持ち場を死守するのに精いっぱいで、波のウオ―タ―ハンマ―を食らって、海に叩き落された井留間に誰も気づかなかった。

夜の海に落ちた瞬間、井留間は体が一直線に沈んでいくと諦めた。だが首をゴムで締めたドライス―ツの内部の空気が浮力になって浮き上がった。

叫ぼうとして海水を飲んだ。潮水が喉と鼻腔を突き刺す。一瞬パニックに陥ったが、体が沈まなかったことで、まもなく落ちつきを取り戻した。

波間から目をやると、イ―グル号の白い航海灯はあっというまに遠ざかり、砕けた波濤が頭にかぶさってきた。

真っ暗な海にひとり取り残された井留間は、不思議なことに恐怖感を覚えなかった。

「恐くないのはこいつのせいか・・・・・・」

井留間は胸元に垂れた紐に手を伸ばした。

ドライス―ツの上にボンベ式のライフジャケット(救命具)を装着している。ボンベの紐を引けば圧縮空気が充満して、一瞬にして浮力が加わる。

〈だが・・・・・・〉と井留間は思った。

インド洋に落水したクル―にとって、ライフジャケットなどは一瞬の気休めにしかならない。いずれは空気が抜けて海に呑まれて死んでいく。

〈俺はいずれ錯乱して、この紐を引くだろう・・・・・・〉

最後は恐怖に耐えられずに、何かにすがろうとあがき苦しむ。そのときすがるのがこのライフジャケットだろう。

〈だがいまの俺はまだ頭がしっかりしている〉

インド洋で落水しても、正気を保っている自分は、死ぬことが恐くないのか・・・・・・。

紐を手で確かめた井留間の頭を、突拍子もない考えがよぎった。

〈俺はひょっとすると自分から死を望んでいた・・・・・・だから死ぬことが恐くないのか〉

井留間はその考えに愕然とした。だが心のどこかに破滅への願望があったような気がする。

氷山に激突して沈没するヨットもいる〈ウィッド・ブレッド世界一周ヨットレ―ス〉は、アメリカのポ―スマスをスタ―トしてケイプタウンに向かい、ケイプタウンからインド洋を経てシドニ―、そして南米大陸南端のホ―ン岬を廻ってリオ・デ・ジャネイロ、最終レグはリオから大西洋を帆走してイギリスにゴ―ルする。

イ―グル号に乗るきっかけは、井留間が経営する小さな貿易会社の倒産だった。妻子と離別してブラジルに逃げるように渡った井留間は、しばらく身を隠そうと思っていた矢先に、ブラジル人の船主から世界一周レ―スに乗らないかと誘われた。

渡りに舟と誘いに応じた。むろんそのときは死など考えていなかった。一年ほどヨットの上ですごして、またやり直そうという気持ちがあった。

だが考えてみれば自分のポジションは、船首で作業をする危険なバウマンである。暗夜の荒海で追い風用の袋帆を展開したり、ロ―プに異常があれば高いマストによじ登る。

危険が多いバウマンには敏捷な若者が起用される。第一レグで身心が消耗した若いバウマンがケイプタウンで下船した。三十九才の井留間は自ら望んでそのポジションについた。若者が下船した穴を埋めるというより、苛酷なインド洋を知ったうえでの自発的な申し出だった。そして体の動きの邪魔になる救命策を着けずに作業して落水した。

いまインド洋で死を迎えようとしている。家族と離別した井留間は自分の意識の奥底に、レ―ス中の壮絶な死への願望があったことを認めた。

そんな自分に気づくと、暗い波濤の海に一人浮んでいる不条理な現実を、受け入れようという気持ちになった。

井留間はボンベの紐から手を離した。

「俺はこいつを引かずに、往生際よく死んでやる」

もし恐怖で気が狂いそうになれば、ドライス―ツの首のゴムを緩めればいい。ライフジャケットの浮力さえ無ければ、体はすぐ海中に沈んでいく。

水平線がわずかに白んできた。ヨットが遠のいた海は、風の音と波の砕ける音だけで、人工的な音は皆無だった。

井留間は防水時計を見た。午前五時十二分。ワッチの交替時間は五時だった。落水したのはおそらく四時五十分ごろだろう。

インド洋の海水に呑まれてまだ二十分もたっていない。だが井留間は一時間以上経った気がした。寒くはない。恐怖感もないが、孤独感だけが強まってくる。

外洋ヨットでは早暁のワッチ交替時が最も危険だった。クル―たちは睡魔と戦い、波浪に揺られて疲労困憊している。ワッチが終われば吊り床に倒れ込むのに精いっぱいで、他のクル―を気遣う余裕などない。そういう状況下で落水したから、他のクル―が落水に気づくのはかなり後になる。

もし気づいてイ―グル号が引き返してきても、暗闇で波濤にもまれる人間の姿を発見することは不可能に近かった。

〈俺はこの広いインド洋で一人ぼっちなんだ・・・・・・〉

そう思うと急に音が聞くたくなった。防水時計を耳元に近づける。小さな電池で動きつづける時計からは、何の響きも伝わってこない。

――音がない。

そう思った瞬間、井留間はいいようのない恐怖感に襲われた。

耳慣れた人工的な音とつながっていない静寂の世界に一人取り残された隔絶感――初めて味わうその恐怖感に、知らずに動かしていた手足がもがきに変わり、体が硬直した。

体が海中に沈み、海水を飲みそうになった井留間は、

「助けてくれ――」

と叫んで思わずボンベの紐を引いた。

胸を圧して一瞬にして膨らんだライフジャケットの浮力で、井留間の体は波間に浮かんだ。体が浮上してから啼くような声を出して息を吸い込むと、しばらく放心状態に陥った。

なにも考えられない虚脱感が続く。自分の意に反してライフジャケットに救われたという安堵感。その安心感を打ち消す気持ちは消え失せている。ライフジャケットにすべてをゆだねて浮いていた。

三十分ほど波間に漂うと、別の思考が戻ってきた。

〈こんなところで浮いていて一体なんになる。いずれは絶対に死ぬぞ――〉

その考えは現実的だった。それならひとおもいに沈んだほうが楽だ。だがその決心は容易につかない。

楽天的なことを考えろと別の思考が囁いた。

ライフジャケットで命を永らえている井留間は、外洋で落水したクル―はなにを思っただろうかと考えた。

「そんなことはわかるはずもない」

井留間は口に出してつぶやいた。

みな海に呑まれて死んでいった。死人の心境など誰もわかるはずがない。

いっそ一直線に海に沈んで行けばよかったと思う。井留間はかつて友人の加藤が相模湾で落水したときのことを思い浮かべた。

晩秋のレ―スで防水カッパにロングブ―ツを履いた加藤は、デッキに降ろされたセイルに足を滑らせて、落水防止ワイヤ―の隙間をくぐり抜けて、足から一直線に海に落下した。そして一瞬も海面に留まることなく、大魚が食いついた浮きのように海底に沈んでいった。

あまりにも呆気なく、一瞬にしてデッキから消えた友人のことが、鮮明に頭によみがえった。井留間は叫び出したいような不安な気持ちになった。

誰でもいい。自分のそばに誰かいて欲しい。インド洋で一人で浮いている凶々しい光景から逃れて、確かなものに繋がっていたいという欲求に襲われた。

井留間は思わず大声を上げた。

「誰か助けてくれ――」

いちど叫ぶと恐怖心が増倍した。助けを求める声が、虚しく三度四度と喉をついて出た。

それは生への執着が、体の奥底から瘧のように込み上げてくる本能的な叫びだった。

頭上で波が砕けて海水を飲んだ。激しく咳き込みながら、このままでは狂い死にすると思った。

「落ちつけ」

井留間は自分を叱責した。

恐怖に耐えられなければ、ライフジャケットを脱ぎ捨て、ドライス―ツのゴムを緩めて空気を抜けば海に沈む。

〈だが・・・・・・〉と井留間は思った。

ゴムを内張りにしたライフジャケットも、ドライス―ツも長い時間がたてば空気が抜け出る。

「そうなれば俺は死ぬ」

死ぬ・・・・・・という言葉を口にした瞬間、不思議なことに井留間の心に落ちつきが戻ってきた。

「そうだ・・・・・・いずれは誰も死ぬんだ」

井留間は諦念を浮べた顔で海を見つめた。夜が明けきったインド洋は、真っ白な波濤におおわれている。

海図でしか見たことのないインド洋は、ヨットマンの井留間が憧れた海だった。そのインド洋に一人死を待っている非現実的な光景に、ともすれば心が挫けそうになるが、いまはただ耐えぬくこと以外は考えまいと決めた。

井留間は自分の過去に思いをはせた。生来球技は不得手だったが、最初に出会ったスポ―ツがヨットだった。県下でも数少ない高校ヨット部に入部し、白い帆に風をうけるヨットレ―スに夢中になった。大学に入ってから外洋ヨットに魅かれ、いつかは世界一周レ―スに出場したいという夢をもった。

趣味として外洋レ―スを続けた井留間は、やがて小さな貿易会社を興し、仕事でブラジルに渡ってイ―グル号のオ―ナ―と知り合った。

オ―ナ―のガルベラスは陽気な男で、ブラジルの株式市場で大損をしたが、チリに渡って軍人と手を組んで闇で大金を稼いだ。その金を元手にリオに帰って、ルビ―鉱山とコ―ヒ―農園を買い取って財を成した。

四十半ばで会社を売り払ったガルベラスは、余生を贅沢に暮らしてもあり余る財産で、世界一周レ―スに挑むと決めて、六十四フィ―トのイ―グル号を建造した。

井留間が誘われた〈ウィッド・ブレッド・世界一周ヨットレ―ス〉は、ヨットマンにとって夢のまた夢のヨットレ―スである。それはオフロ―ド・レ―スに賭けるカ―レ―サ―が〈パリ・ダカ―ルレ―ス〉を目指すことと同じで、めったなことで叶う夢ではない。

井留間は誘いに応じた。倒産の債務で世の中が嫌になっていたわけではない。だが会社を大きくするために身を粉にして働いたものの、銀行に裏切られた思いは強かった。結局銀行は天気のときは愛想よく傘を差し出したが、雨が降れば平気で傘を奪い取った。

井留間はそんな銀行からバブル時に大金を借り出した。経営者は見栄もあれば家族もいる。そういうものを守ろうとすれば、銀行のいいなりにならざるを得なかった。バブルが吹き飛ぶと掌を返したように冷酷になり、一括返済を迫る銀行への反撃を考えた。肚をくくってすべてを捨てる覚悟を決めれば恐いものはない。担保の家屋敷を手放すかわりに、多額の借金を残して会社を倒産させ、事前に隠し貯めておいた現金を妻子に渡してブラジルに来た。

会社にしがみつくことしか知らない日本人、働くことしか頭にない日本人と較べて、地球の裏側で暮らすブラジル人は正反対の人種だった。会社は人生を楽しむ糧を得る場所としか考えていない。金などなくても楽しく歌って踊って生きていくのが人生だ。

リストラなど意に介さないブラジル人を見て、井留間は魂が救われる思いがした。進水したイ―グル号の最新の電子機器に頼らないマッチョ自慢のクル―とも気が合った。一攫千金を夢見て成功し、大きくなった会社を売り払って人生を楽しむガルベラスも気に入った。こういう連中と海に出れば気持ちが癒される。そう思った井留間は青い艇体が美しいイ―グル号に乗り込んで世界一周レ―スに出た。


 

落水から二時間すぎた。井留間は喉の渇きを覚えた。

インド洋で真水は絶対に手に入らない。死への恐怖よりも、これから喉の渇きとの戦いのほうが辛くなる。

漂流記を読んだが、最後は自分の小便を飲んだという記述があった。下半身は海の中にある。そういう状況下で小便を飲む方法があるのだろうか。

ドライス―ツは全身を覆っている。ズボンの足首もきつく締まっている。ズボンの中で洩らした小便をどうすれば飲めるだろうか。

そんな考えにしばらく時を忘れた井留間は、落水後にはじめて尿意を覚えた。

「我慢しろ。こいつは大切な小便なんだ」

井留間は自分に言い聞かせた。

「小便の飲み方がわからない前に、不用意に出すんじゃないぞ。わかったな」

そう命じたとき井留間は、自分が生に向かってあがきはじめたのを知った。

水平線から朝陽の頂きがのぞいた。海はすこし波浪がおさまっている。ライフジャケットの浮力は十分で、顔に当たる飛沫は少ない。

喉の渇きは強まってきたが、やはり小便の飲み方はわからない。

考えあぐねた井留間の目に、小さな黄色い浮遊物が飛び込んできた。

「なんだ、あれは」

およそ十五メ―トル先に、黄色い小さな物体が浮いている。何かはわからない。蒼いインド洋に浮んでいる黄色い物体は、井留間の心を少年のように躍り上がらせた。

「逃げるなよ」

井留間は注意ぶかく手足を動かして近づいていく。

小さな黄色い魚だろうか。うまく捕まえられれば食い物になる。あるいは海鳥が羽根を休めているのかもしれない。だが一羽で広大なインド洋を渡る鳥などいるのだろうか。

いずれにしろ黄色い物体は、生と繋がったなにものかだ。そう思うと井留間の体に熱いものが漲ってきた。

さらに近づいても逃げない。よく見ると黄色い物体は、半分以上海に沈んでいる。

井留間はクロ―ル泳法のように猛烈に両手を動かした。

伸ばした右手に固い感触が伝わった。

「オレンジだ」

間違いなくそれは固いオレンジだった。

なぜこんなに広いインド洋に、腐ってもいないオレンジが浮いているのか。井留間はふかく考えもせずに狂喜の叫び声を上げた。

オレンジを両手で握り締めて、なんども頬ずりした。黄色い果実の感触はもぎたてのように新鮮だった。

止めどなく涙があふれてくる。冷えた頬を伝って流れる温かい涙は、確実に生を実感させた。

〈俺はまだ生きている――〉

そう思ったとたんに股間に温かい感触が広がった。小便を漏らしたことも気にならない。

そのとき初めて現実的な考えが頭をよぎった。

「なぜこんな海にオレンジが浮いているのだ・・・・・・」

新鮮で固いオレンジは、数時間前に船から投げ込まれたものだ。インド洋航路の大型船か、あるいは遠洋航海のトロ―ル漁船だろう。

その直後に井留間は衝撃的な事実を思い出した。

「まちがいなくイ―グル号だ」

井留間はオレンジを握り締めた。

「イ―グル号のクル―が、俺のためにオレンジを投げ込んだんだ」

〈ウィッド・ブレッド・レ―ス〉は四つのレグで一分を競う激しい競り合いが続く。そのために『レ―ス中の命は自分で守れ』が鉄則で、落水したクル―は見捨てていくという〈黙契〉がクル―間に結ばれている。

荒れた夜の海で落水海域に引き返すことは至難の技である。落水者も大波で流されていく。結局は無為な捜索を続けることになる。

第二レグのスタ―ト前に、井留間はもしインド洋で落水したら、どうしてもらいたいという話題で、女性クル―のマリアと言い交わしたことを思い出した。

「俺が落ちたら花輪はいらないぞ」

「それなら裸の女性の写真を海に投げ込むわ」

マリアが冗談で応じる。ガルベラスの娘で褐色の肌をしたマリアは、ブラジルのオリンピック代表でヨ―ロッパ級ヨットで五位に入賞した。気性は強いが明るい性格で、イ―グル号で男性クル―と同じに扱わないとふくれ面をする。そんな男まさりのマリアに井留間はすこし魅かれていた。

「マリアが海に飛び込んでくれればいいが、写真はいらない。それよりオレンジを二個海に投げ込んでくれないか」

「どうして二個なの」

「誰でも一人では死にたくないものさ。沈む前にマリアみたいな美しい人魚が現われて、天国に連れて行ってもらうためのプレゼントだよ」

「いいわ。オレンジ二個なら安いものね」

レ―ス中の井留間の朝食は決まっていた。ハムをレタスで包んで食べ、そのあとで皮をむいたオレンジにかぶりつく。そうするとどんなに荒れた海でも胃と心がよみがえる。

それを知っているマリアは、黒目がちの大きな瞳でウインクして、オレンジ二個を投げ込む約束をしてくれた。

「これは間違いなくイ―グル号から投げ込まれたオレンジだ」

海に浮んだオレンジは、半分以上沈んでいるから波に流されない。

ライフジャケットで体の上部が浮んでいる井留間は、風波に流されてオレンジに追いついたのだ。

「このオレンジで俺はマリアと繋がっている」

そう確信した井留間は、三十分かけてオレンジの皮を舐めた。

丸ごとオレンジ一個を咀嚼したくなる欲望に耐えながら、皮を四分の一剥いた。口にふくんで舌で皮を舐めまわす。オレンジ特有の香りが鼻腔を刺激して、舌の付け根がきゅっと痛んだ。

「このオレンジは俺を蘇生させるために、マリアが女神になって流してくれたものだ」

広大なインド洋で、小さな果実と邂逅するということは、信じられないほど低い確率だった。それなのにこのオレンジは、意志を持つもののように自分の所まで流れてきた。そう考えたとき魂がよみがえる思いがした。

思いきって皮を噛み切った。意志の力で歯の動きは止まらない。あっという間に飲み込んだ。うまいとか酸っぱいとかの味覚はまるでなかった。ただ涙が流れて止まらない。

残りはドライス―ツのフ―ドの中に入れて、少しでも長持ちするように海水から遠ざけた。

心に余裕が生じた井留間の頭に、イ―グル号が帆走する姿が浮かんだ。

「もしかしてイ―グル号が引き返して、俺を捜しにくるのではないか」

ふいに楽観的観測が心に芽生えた。

「だが・・・・・・」

直後に井留間は打ち消した。

イ―グル号が投げ込んだオレンジが、この手にあるということは、〈黙契〉によってイ―グル号は確実に自分から遠のいて行き、シドニ―めざして疾走しているはずだ。

オレンジを海に投げ込んだマリアたちブラジル人の顔が目に浮かんだ。

白人と黒人の血が複雑に入り混じった人種の坩堝といわれるブラジル人は、日本人では考えられない途方もない思考回路を持っている。

その一つがリオ・デ・ジャネイロのカ―ニバルだ。毎年カ―ニバルの期間中に二百人近い人が死ぬ。祭りの事故で一人でも死ねば、大騒ぎする日本人には信じられない話だが、死者が続出してもカ―二バルは止めない。

死人が多数出る原因は貧富の差にあった。リオ・デ・ジャネイロの高僧ビルの背後の丘陵地帯が、マフィアも立ち入れない貧民窟になっている。カ―ニバルはその貧民窟の人々の年に一度の身心を解放する祭りである。

貧しい人々はサンバの踊りでうさを晴らして、強い酒を浴びるように飲む。急性アルコ―ル中毒で百人位が死ぬ。カ―ニバルで浮かれてサンバを踊り、酒を飲んで死ねば、これ以上の幸せはない。

次は色恋沙汰だった。厳格なカソリック教徒が多いブラジルでは、カ―二バルの日はどんなに羽目を外しても神様が許してくれる。金持ちの妻と若い黒人男性が恋に走り、それを見つけた亭主が怒り狂って拳銃で撃ち殺す。

あとは喧嘩と交通事故だ。騒ぎにまぎれたマフィアの殺人などもあって、昨年は百八十二人が死んだ。サンバと酒で盛り上がった宴の死者など意に介さず、毎年平気でカ―ニバルを続ける。

マリアもガルベラスもクル―たちも無類のカ―ニバル好きだ。イ―グル号がレ―スに勝つためなら、〈黙契〉によってクル―が落水しても見捨てていくだろう。だから絶対にイ―グル号は引き返してこない。

「つまりこいつは俺の死の証というわけか・・・・・・」

フ―ドの中のオレンジを手で確かめた井留間の眼前から、マリアの顔が遠のいていった。

 

井留間が漂う海の波浪がかなり小さくなった。

太陽が高くなり、海水温度が上昇したために、風の力が弱まってきたのだ。

波の揺り返しが小さくなると、本能的に安堵感を覚える。

「これが相模湾だったらよかったのに」

井留間は声に出して一人ごちた。

こんな凪の海になれば、かならず漁船が見つけてくれる。

「だがここはインド洋だ。あきらめろ」

独り言を言っているうちは気が狂わない。だが心が弱れば黙り込む。そのときが最後だと井留間は思った。

このまま頭が正常であったほうがいいのかと考える。あるいは錯乱して何もわからず死んだほうがいいのか。

「そんなことがわかるはずがない」

井留間は大声を上げた。叫ぶことで恐怖が吹き飛べばいいと思ったが、逆に心の平衡が失われた。絶叫が口をついて出る。

「いやだ。死ぬのは絶対にいやだ。誰か助けてくれ――」

錯乱した頭でライフジャケットを脱ごうとして、体に巻いた細紐に手を伸ばした。

そのとき井留間の目の前に、心臓が凍りつきそうなものが現われた。

海面を切り裂く三角の背鰭であった。

「鮫だ――」

井留間の口が恐怖におののいた。

だが三角の背鰭から逃げることもできず、身を護る武器もない。

「誰か助けてくれ」

このままでは生きたまま鮫に喰われる。パニックに襲われた井留間は、背鰭に向かって喚きながら手足を動かした。恐怖で体に震えが走り、大声が口をついて出る。

「こっちに来るな。あっちへ行け――」

無益な叫び声を上げながら、生き地獄を味わうよりは、溺れ死んだほうがましだと考えた。ライフジャケットの細紐を解こうとしたが、固く結ばれてほどけない。

絶望感が体をつらぬいた。数分喚き続けたが、鮫はそれ以上近づいてこない。

正気に戻った井留間は、鮫は自分より大きいものは襲わないことを思い出した。

「そうだ。子供のときに教えてもらった六尺褌だ」

小学六年生の遠泳教室で、漁師の古老に六尺(約十・八メ―トル)褌の前垂れを長く垂らせば背丈が倍になり、鱶(鮫)は襲ってこないと教えられた。

井留間は両手を頭の上に伸ばして、体を横にして手足を懸命に動かした。こうすれば身長が二メ―トルを超す。鮫の大きさはわからないが、なるべく自分が大きく見えるようにすれば襲うのをやめるかもしれない。

手足を伸ばした井留間は、鮫から逃げようと必死にもがき続けた。鮫はそれ以上近づいてこない。ということは鮫は自分より小さいのかもしれない。

手足を激しく動かし続ける井留間は疲れを覚えた。だが動きを止めればすぐ喰い殺される。

激しい動きのせいでフ―ドからオレンジがこぼれ落ちた。恐怖を忘れてオレンジに手を伸ばした。手足の動きが止まったが、鮫は襲ってこない。

〈おかいしいぞ――〉

よく見ると背鰭の動きが緩慢で、その先端がやや丸みをおびている。

人喰い鮫ではないのかと思った井留間の虚を衝いて、背鰭がゆっくりと近づいてきた。

「く、来るな――」

恐怖に顔を引き攣らせた井留間が、海面の下に見たものは、思いもつかない生き物だった。

暗灰色の卵のように丸い巨大な胴体。その胴体が途中で切れたような形をしている。

井留間の全身から力が抜け落ちた。

「マンボウだ・・・・・・」

巨大な卵に背鰭と尾鰭がついたようなユ―モラスなマンボウの姿がそこにあった。

よく見るととてつもなく大きい。巨大な体と不釣合いに目は小さく愛らしく、まるで巨象のような印象を受けた。

「はっははは、でかいマンボウだ」

井留間は死が迫っていることも忘れて狂喜した。

巨大なマンボウは興味を示して少しずつ近寄ってくる。マンボウの動きは泳ぐというより、巨大な団扇を海中でゆっくり動かしているようだ。

井留間とマンボウの目が合った。

「おいマンボウよ。お前は俺を食わないよな」

井留間は頭だけのような巨大な生物に話しかけた。

小さい目で井留間を見つめ、人間を獲ろうとするように、さらに近寄ってくる。

丸い背鰭が間近に迫った。卵のような巨体から垂直に伸びた背鰭は、厚くて頑丈そうに見えた。

不気味だったが、思いきって背鰭に手を伸ばした。

波に揺れる不安定な海で、背鰭は大地のように安定していた。

「はっははは、つかまえたぞ」

手に伝わってきた感触は固いゴムのようで、思った以上に背鰭は厚かった。

井留間はオレンジをドライス―ツの胸のポケットに入れて、両手で背鰭にしがみつき、背中に腹這いになった。

マンボウの確かな手応えが厚い背鰭から伝わってくる。

「ああ、こいつは奇跡だ・・・・・・やっぱりマリアのオレンジが効いたんだ」

井留間は生と繋がった実感に呻き声を洩らした。

この奇跡の一瞬に巡り会えただけで、もういつ死んでもいいと思った。

「頼むからしばらく俺を、お前の背中で休ませてくれ」

井留間は両手でしっかりと背鰭をつかみ、卵のような体に馬乗りになった。

井留間の五、六倍はある巨大なマンボウは、背鰭と尾鰭を左右同時に振って泳ぎ出した。


マンボウの緩慢でユ―モラスな動きが、背鰭を通じて伝わってくる。

驚いたことに背鰭の付け根は、筋肉らしいものが盛り上がっている。左右に背鰭を振ると、逞しい筋肉の動きが両手に伝わってくる。

マンボウがどこに行くのかわからない。だが自分の命が尽きるまで、この背鰭にしがみつていこうと決めた。

「おいマンボウよ。俺のような迷惑者がしがみついてすまないな」

井留間はマンボウに詫びを言った。いままでの絶望感と、予期せぬ安堵感が入り混じって、なんでもいいから語りかけたい気持ちになっている。

「ひとつ訊きたいんだが、いままで背鰭に人間をつかまらせたことはあるのかね」

マンボウが答えるはずはない。だがこの巨体と力強い背鰭の動きを見れば、それもありそうな気がしてきた。

井留間は自分の体とマンボウの体長を見較べた。おそらく五メ―トル近くあるだろう。体重は見当もつかないが、一トン以上はありそうな気がする。

「ところでこんなに大きくなるのに、何年かかったんだね」

井留間は独り言を喋りながら、他の誰かが見たら気が狂ったと思うはずだ、いやそれ以上にこの怪奇な光景に、腰を抜かすほど驚くだろうと思った。

ひとしきり話しかけたあとで、井留間は喉の渇きを覚えた。

マンボウに出会った喜びから、オレンジのことをすっかり忘れていた。

「どうだい。俺はオレンジを持ってるけど、食うかね」

井留間はポケットをまさぐってオレンジを取り出した。

よく見えるように前方に差し出した。マンボウはなにも反応せずに体を振って泳いでいく。

「食いたくないのか。それなら悪いけど、俺はお前に出会った祝いに、一房だけ食べさせてもらう。欲しくなったら遠慮せずに言ってくれ」

皮を剥いた一房を口に含み、噛み潰した。甘酸っぱいオレンジの果肉が、口いっぱいに広がった。

マンボウの背中でまさかオレンジが味わえるとは・・・・・・井留間は他人が絶対に真似できない行動をしていると思うと、嬉しさで死のことが頭から遠のいた。

残った部分を丁寧にポケットにしまい込む。背鰭にしがみついて作業するのは疲れるが、落水してから初めて心に平穏が戻ってきた。

マンボウの背中から井留間は空を見上げた。太陽は子午線から西にまわり、午後の強い陽光を放っている。

白煙を一直線に曳いた飛行機が、豆粒のように小さな銀色の煌きを照り返して、東の方向に飛んでいく。あの上空からマンボウにしがみついた人間を見たら、ずいぶん滑稽だろうと思った。

「マンボウにしがみついた中年男か。しかもここはインド洋だ・・・・・・。なかなかいける光景じゃないか」

世界中の誰もが想像もつかない光景を思うと、迫りくる死を忘れて、心が浮き立つような気分になった。

「だが待てよ」

井留間は一人ごちた。

「インド洋の第二レグで落水したクル―は二十人以上いる。だとすれば俺の他にもこうした男がいたかもしれないな」

だが結局は死んだ――という言葉が口をついて出そうになったが、飲み込んだ。

そういうことを考えるのはやめよう。いまこの現実離れした光景の中にいるのは自分だし、マンボウの力強さを知っているのは自分しかいない。いまは奇跡的な現実だけを考えていればいい。

飛行機から背鰭に目を戻してつぶやいた。

「こんな希有な経験をして、命が果てるのなら悪くない一生だ」

倒産した会社のことも、憎んでいた銀行のことも、はるか昔の出来事のように朧になって消えていった。

真っ蒼な海は風が弱まり、マンボウと井留間が切り分ける波が、後方に伸びていく。

海面に大きな海藻の塊が漂っていた。ところどころ黄ばんでいるが、全体が紫色したカツオノエボシが細長い根を海中に垂らしている。

カツオノエボシの根の下で小魚が群れている。大西洋を流れ上がるガルフストリ―ムの中で小魚は生きていけない。正確には流木や流れ藻を海の森にして、小魚たちは生きていく。海藻や流木の下で発生したプランクトンを小海老が食べ、その小海老を小魚が食べる。それを狙って大魚が命をつないでいる。

生命の源泉であるカツオノエボシの塊が、後方に遠のいていったとき、井留間はある事実に気づいた。

「このマンボウは一定の方向に向かって泳いでいる」

最初は潮流に乗って泳いでいるのだろうと思った。

だがマンボウは小さな潮目を二つ泳ぎぬけたが、井留間が見るかぎり潮目で方向を変えていない。

「おかしいぞ」

井留間は太陽の位置と短・長針付きのアナログ時計を使って進行方向を測った。

外洋を航海中にコンパスが壊れたとき、大まかな方位を知る原始的な方法である。

マンボウはほぼ真東に向かっている。それは考えもしなかったことである。

「まさか・・・・・・」

マンボウが泳ぐ方向を知って井留間は愕然とした。

シドニ―のゴ―ルをめざしていたイ―グル号も、その手前のメルボルン沖のバス海峡めざして、方向九十一度――つまりほぼ真東に向かって帆走していた。

念のためにもう一度測った。マンボウは確かに真東に向かって泳いでいる。

「これは単なる偶然だ・・・・・・」

それは井留間にもわかっていた。海水温度の影響か、餌の豊かな海域があることを知っているマンボウは真東に向かっている。真東の方位はただの偶然にすぎない。

だがこういう状況下で、偶然にしてもイ―グル号のゴ―ル地点と同じ、真東に向かって泳いでいるという事実は、井留間に偶然以上のなにかをもたらした。

「だがこの遅いスピ―ドだ」

井留間は自分の楽観を打ち消すようにつぶやいた。

「もしバス海峡にお前の好きな食い物があっても、そこに泳ぎつくには三、四ヶ月かかる・・・・・・俺がお前と同じ海の生き物だったら、そこまでしがみついて行くんだがなあ」

イルカはある種の音波を感知して大海を泳ぐと聞いた。鯨は人間が聴き取れない水中音を感知しながら、赤道から南極まで大遊泳をすることを井留間は知っていた。

「お前にもそういう超能力があるのかね」

井留間は愛しそうに背鰭を撫でた。

ざらついたゴムのような感触の内側に、卵のような単純な外形と同じく、単純な機能しか備わっていないように井留間には思えた。


マンボウはいぜん同じ方位に向かって泳いでいく。

なにに頼って方向を決めているのか、皆目見当はつかない。

だがその揺るぎ無い方向性に、井留間はある種の感動を覚えた。

「そうだ。俺を喜ばせてくれた礼に、お前に名前をつけてやろう」

井留間は小学校四年生のときに、伝書鳩の飼育に夢中になったことを思い出した。鳩を大空に放つと、上空で数回円を描いて飛び、それから一直線に鳩舎に向かって飛んでいった。

伝書鳩の姿に魅せられた井留間は、友達の鳩と交配させて数を増やした。目的は速い鳩の育成と、真っ白な鳩を生ませることだった。真っ白な鳩は井留間の夢だった。羽白と呼ばれる羽根の先端が白い鳩を交配させて、少しずつ白い羽根を増やしていった。六年生になってついに真っ白な鳩が生まれた。

成鳥になって空を飛びまわる純白の鳩に、訓練をほどこして五キロ遠方から放った。純白の鳩が一直線に家路めざして大空を飛び、無事に鳩舎に帰った日に、井留間は嬉しくなって名前をシロとつけた。だがシロは野良猫に金網を破られて、食われてしまった。

伝書鳩のもつ不思議な能力。遠く離れた場所から、鳩舎めざして一直線に飛んでいく伝書鳩――夢の具現だった真っ白い伝書鳩と、マンボウの姿を重ね合わせた。

「お前の名前はシロだ」

巨大なマンボウは大空に放たれた伝書鳩のように、依然として真東めざして泳いでいく。

潮目が近づいてきた。海面に海藻が一列になって浮んでいる。

初めてシロが左に方向を変えた。

「やはり真東に進んでいたのは、なにかの偶然だったんだな」

拍子抜けした気分で、井留間は近づいてくる潮目の海藻を眺めた。

海藻の列と並んで白い塊が浮遊している。シロは白い塊に近づいていく。

それはクラゲだった。頭が三十センチほどのクラゲを、シロは巨大な頭に較べて小さすぎる口を突き出して、器用に食べはじめた。

「なんだ。シロの好物はクラゲだったのか」

井留間は意外な気がした。クラゲは見たかぎりなんの滋養分もない生き物に見える。血も通っていない透き通ったクラゲを食べて、シロは五メ―トルの巨体になったのか。

潮目に漂うクラゲを食べ終えたシロは、背鰭を強く動かして方向を変え、ふたたび泳ぎはじめた。

太陽と時計で進行方向を測った井留間の口から、

「まさか・・・・・・」

驚愕の呻き声がもれた。

間違いなくシロは、真東の方向に向かって泳ぎはじめた。

いま井留間の心の中にある確信が芽生えていた。シロは何かに向かって泳いでいる。その何かは見当もつかないが、確実な何かに向かって伝書鳩のように一直線に突き進んでいく。

「おいシロよ。お前はどこに向かって、泳いでいこうというんだね」

時間がたつにつれて、井留間の身に確実に死が迫っているのはわかっていた。こうなった以上、体力の限界までもちこたえて、行けるところまで行ってやろう。

急にマリアの顔が目に浮かんだ。もう一度会いたいと痛切に思った。

「そうだ。俺もオレンジを食べて、シロのように元気にならなくては」

井留間は左手でポケットをまさぐって、オレンジを取り出そうとした。ポケットのチャックが動かない。指先に力を入れた瞬間に、左手の筋が硬直して引攣りがきた。

「なんてことだ」

指先が伸ばせない。海水で冷えたせいだ。左手をカッパにこすりつけて揉みほぐし、無理やり指を外側に押し曲げた。

だが引攣りは治らない。このままでは右手一本に頼るしかない。そうなれば疲れが増加して、いつかはシロの背中から振り落とされる。

「いやだ。俺はシロから絶対に離れたくない――」

井留間は泣き声を上げた。泣きながら叫び続ける。

「こんなときに引攣りがきて、俺は運がない男だ。この指の馬鹿野郎め」

井留間は左手の指に噛みついた。涙がぼろぼろこぼれ落ちて止まらない。

そして二度三度と大きな息をしてから声を低めた。

「悪かったなシロよ・・・・・・いきなり取り乱して大声を上げて、びっくりしただろう」

井留間は引攣った左手で背鰭を擦った。

「この左手が元に戻っても、いずれ俺は死ぬ。そのときは俺を一人ぼっちから救ってくれた礼に、そうだな、いまの俺は何もないから、この体を食ってくれないか・・・・・・」

また涙がこぼれてきた。涙を左手で拭いながら井留間が続けた。

「そうか。厚いゴムのカッパを着ていたら食いにくいな。いいよ、死ぬ前にカッパを脱いで、裸になってやるからな」

そう言ってからクラゲが好物であるシロは、人間など食えやしないことに気づいた。

井留間は引攣りで頭が錯乱しはじめたことを知った。


ひたすらシロは真東に進んでいく。

どの方向に進もうが、その行く手にはしょせん死しかない。だが真東の方向になにかを期待している自分に気づいた。井留間は声に出して叫んだ。

「俺はもう永くはない。だけど俺は東の方向に、なにかを期待しているのだ」

やがて夜になり朝が来る。人間は本能的に太陽が現われる東方に、ある種の尊厳を抱いている。朝陽に向かってシロの背中で息絶える自分を想像した。

「それも悪くない」

そう思ったものの、右手一本で背鰭にしがみついている疲労からみて、とうてい明日の朝まで生き延びられるとは思えない。

できればもう一度、朝陽が水平線から昇るのを、シロの背中から見て死にたいと願った。井留間は残っている力を振り絞って、左手の引攣りを治そうとした。

「おい、おまえ。頑張ってくれ」

自分の左手を叱咤するように号令をかける。

いままで流れに身をまかせていた両足で、シロの胴を挟みつけた。背鰭に右腕をまわして肘で支える。こうすれば右手の指がどうにか使える。

「こいつ、しゃんとしろ」

井留間は右手で左手の指を揉み、きつく握って外側に反らせた。

「ほら動け。でないとシロに申し訳ないぞ」

少しよくなってきた気がする。作業に夢中になって頭が下がり、海水を少し飲んだ。猛烈に咳き込む。唾を吐きながら左手との格闘を続ける。だが引攣りは治らない。

知らぬ間に時間がすぎて、太陽が大きく西に傾いた。

ふと目を西陽に向けた。

「あっ!」

井留間の口から驚愕の声が洩れた。

「あれは、幻日だ・・・・・・」

西の水平線の上に、横に流れた薄雲がかかっている。そこから二つの太陽が、最後の輝きを海に放っている。

それは滅多に目にできる光景ではなかった。薄雲に反射した光の加減で、太陽が二つ西の水平線上に現出する。その希有な現象を、井留間はこの世の見おさめだと思った。

ついに自分の迎えが来たかと観念したが、とつぜん別の思いが脳裏をつらぬいた。

「そうか。あの二つの太陽は、俺とシロなんだ」

インド洋にシロが現われたのも天がしむけた奇跡だった。いま二つの太陽が現われて、自分とシロの希有な結びつきを、死ぬ前にこの目に焼きつけてくれた。

「シロよ、ありがとう。こんなありがたいものを見せてくれて・・・・・・」

涙がとめどなく流れ落ちる。涙で幻日がかすんできた。

「たぶん俺は今夜のうちに、力が尽きるだろう」

井留間はシロにつぶやいた。

「だがシロのことは絶対に忘れないぞ。あの二つの太陽のように、俺が死んでもいつか必ずシロと一緒に、俺は西の空に現われてやる」

涙で幻日が見えなくなった。だがそれは違った。雲の加減で二つの太陽が一つになり、まさに水平線に沈もうとしていたのだ。

「俺たちは死んでも一緒だ。シロよ、いろいろありがとう」

井留間は両手でシロを抱きしめた。引攣った左手が自然に動き、力いっぱいシロの巨体の感触を確かめた。

その直後に井留間は自分の頭が錯乱したと思った。

人工的な連続音が耳に響いてきたからだ。

「ああ・・・・・・シロの心臓の音か。お前は喋れないから、心臓の音で俺に別れを告げようとしてるんだな」

井留間はシロがかぎりなく愛しくなった。このままずっと一緒にいたいが、別れは刻々と近づいている。

はっきりとそれがエンジン音だとわかったのは十分後だった。

遠い波間から高いマストが、井留間の目に飛び込んできた。

信じられないが、それは間違いなくヨットのマストだった。


・・・・・・シロの背から救い上げられて、イ―グル号のデッキにしゃがみこんだ井留間は、毛布をかけてくれたマリアに第一声を発した。

「どうしてここに帰ってきたんだ」

「あいにくオレンジが一個しかなかったの」

マリアが可愛い顔に涙を流しながら肩をすくめた。

「だから井留間に悪いと思って、みなで相談して引き返してきたわ」

それはマリアの照れ隠しのジョ―クだとわかっていた。イ―グル号が救助に引き返してきても、砂漠の中で小さなガラス粒を捜し出すように、大海の中で自分を見つけることなど不可能である。だがマリアたちは自分を助けられないとわかっていても、海の仲間として迎えにきてくれたのだ。

「でも井留間がマンボウの背中にしがみついているのを見たときは、さすがに私も驚いて興奮して叫び続けたわ」

「それは俺も同じさ。まさかあんな大きなマンボウに出会えるとはな」

デッキの上から井留間は海を見た。シロはイ―グル号の側舷に寄りそって離れない。

「それより驚いたのは井留間を発見した位置だよ」

ナビゲ―タ―(航海士)が口をはさんだ。

「俺たちは落水海面から九十一度の逆ライン、つまり二百七十一度で逆走してきた。そのラインからお前は一フィ―トも流されていない。いったいこいつはどういうことなんだ」

イ―グル号は人工衛星を使って現在位置を知る〈GPS位置測定器〉を装備している。それには自動的に航跡図が記録される。航跡図を正確に逆に走れば、落水地点に帰り着ける。

だがそれには大きな無理がある。落水地点から一メ―トルも流されずに、井留間が浮いていればの話である。井留間は波や潮流によって、何マイルも流されていたはずだ。

井留間はシロを見た。不恰好な泳ぎで必死にイ―グル号と並走している。

〈まさか――〉

突拍子もない考えが頭をよぎった。もしかしたらシロはイ―グル号が波を切り分ける音か、エンジン音を聞き分けて、二百七十一度に逆走してくるイ―グル号に近づくために、ひたすら九十一度の方向に泳ぎ続けてきたのではないか・・・・・・。

「それに違いない」

井留間の体に衝撃が走った。シロには方向を知る特別な能力があり、イ―グル号の存在を感知しつつ、必死にヨットに向かって泳ぎ続けたのだ。

そしてマリアたちブラジル人の友情と、シロがもつ不思議な能力が重なって、インド洋で奇跡が起こった。

それからしばらく井留間は、イ―グル号から離れずに泳いでいるシロの背鰭を、呆けたように眺めていた。


井留間を背中から降ろして、イ―グル号と並んで泳いでいたシロは、急に方向を変えて潮目をめざした。

デッキに立ちすくんだ井留間は、インド洋のうねりに見え隠れするシロの背鰭が、やがて海に消え去っていくのを見守った。

蒼い海に背鰭が消えた。

「さようなら、シロ・・・・・・」

小波の白い穂が別れを告げるように夕陽に煌いた。


[完]

集英社 「小説すばる」 2002年9月号掲載

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